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小説 | 代々木上原 「犯罪のない町の小さな犯罪」

はじめに

  • Posted by: 高田
  • 2012年12月 8日 14:41

ハビタット・ブログ小説「代々木上原」へようこそ!

これは、趣味の小説書きを、代々木上原の町案内に利用できたら面白いな、と思いたって始めさせてもらった物です。素人ではありますが、人から読まれることを前提に、独りよがりにならない作品を目指す所存です。
「代々木上原」をキーワードに、シリーズ物として続けていけたらと思っています。

「この物語はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません」ということで、今後ともよろしくお願いいたします。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第1回 Chapter 1-1 


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Chapter 1-1

「やっぱり女性の1人暮しって、不安じゃないですかぁ」
 小奇麗な格好をした20代前半の女が、探るような目で隣を歩く男に言った。
「いや、この代々木上原って町は、かなり治安良いですよ。僕がここで仕事し始めてからですけど、今まで事件らしい事件って起きたこと無いですから。あったとしても、ホント、まれですよ、マレ」
 スリムタイプの背広を着たクリーンカットの男が、ファイルの束を片手に、隣を歩く若い女に爽やかな口調で話しかけた。2人は代々木上原駅前の商店街を歩いている。どうやら賃貸物件を案内中らしい。新しい町での生活に不安を抱いている客を安心させようとしているのだろう。不動産業者の男は笑顔を絶やさない。
「なんていうか、『高級』っていう町のイメージばかりが先行してるんですけど、町も人も人間味があるし、新宿、渋谷が自転車で通える距離なのに、治安は良いし、オアシス的な安心感があるんですよね。で、僕はここを勝手に、『犯罪の無い町』って呼んでるんです」
 男は、これ以上爽やかになれないくらいの笑顔を見せた。
「へぇ、そうなんですか! この町にして良かったって気がしてきました」
 若い女は安堵の表情を浮かべ、軽やかな足取で不動産業者の後をついて行く。
 代々木上原駅には、小田急線と千代田線が乗り入れている。新宿発の小田急線急行の次の停車駅であり、千代田線本線の始発駅でもある。駅周辺には、山手通りや井の頭通りなどの交通量のある道路が徒歩圏内にあるが、周囲には緑が多く、町を通り抜けていく車の量がさほどでもないせいか、空気が淀んでいる感は全くない。前日の雨の湿気と新緑の匂いを含んだ春の風が、代々木上原駅前商店街の通りを流れている。

 歩道に佇んでいた塩沢の鼻先を、不動産業者と女性客が通り過ぎて行った。塩沢は二人の会話を聞きながら、苦笑いを浮かべた。
<『犯罪の無い町』ね……>
 塩沢は、15メートル先のビルの4階にある探偵事務所を見た。友人であり、また上司でもある油井が、ビルのオーナーから「興信所」や「探偵事務所」などの看板を出さないという条件で借りている小さな事務所だ。ビルの案内板には「(株)アブソルート代々木上原」とだけ出ていて、何の業種なのかさっぱり分からない。つい最近まで、「仕事がこない」とよくぼやいていた油井の姿を思い出して、塩沢は乾いた笑い声を上げた。
 駅の方から歩いてきた中年女性が、怪訝そうに振り向くと、足を止めて塩沢の方を睨んだ。だがそれも一瞬の事で、不思議そうな表情を浮かべると小さく肩をすくめ、有名中華料理店の「jeeten」やロケ弁などで知られる「金兵衛」、近所に住む芸能人が来店する焼肉店の「まんぷく」などがある方向へ歩き始めた。
 中年女性の視線を気に留める様子など微塵もみせず、塩沢はいつものように無表情に戻ると、1時間以上前からそうしていたように、花屋の店先の物言わぬ花たちを眺めながら、缶入りのミルクティーを啜った。

(Chapter 1-2へ つづく)

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今回の舞台の代々木上原商店街です。

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吉田風中国家庭料理「jeeten」

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魚屋さんのお弁当「金兵衛」

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「まんぷく 代々木上原」

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「花市場」

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第2回 Chapter 1-2  

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Chapter 1-2

 代々木上原駅の改札口から東口へと続く2階建ての「駅ナカ」ショッピングストリート「アコルデ代々木上原」を抜けると、新旧の店が並ぶ坂道に出る。その坂を数メートル下った先に、犬が店番をしているお洒落な古本屋や、ベルギー産などの輸入ビールを販売する酒屋、女性店員たちがテキパキと働いている花屋に囲まれた十字路が現れる。また、この坂を南へ上って行き、井の頭通りにぶつかるまで商店街が続く。駅前から来た車などが井の頭通りへ抜ける際の通り道にもなっている。
 塩沢は、この角の花屋へ来て、ぼうっと花たちを眺めることを日課としていた。時には足をのばして代々木八幡や代々木公園まで散歩に出かけることもあるが、様々な種類、様々な色彩の花々が一堂に会している姿を見る方が手っ取り早くていいと、毎日この花屋に顔を出している。しかし、自分で育てたいとは全く思わない。
 探偵という職業柄、人間観察をするべきかもしれないとは思いながらも、感情を持たない生物を見続ける事を優先してしまう。自分の特殊な「才能」のおかげで、今まで仕事で一度もミスした事がないために、その必要性を感じていないというのが正しいのかもしれない。
 この交差点を通る一方通行の道路は、盆踊り大会やハロウィーンなどの催し物が開催される際のメインストリートだが、普段の人々の往来はまばらで、週末でも混雑はしない。車両などの交通量もさほどではなく、高級住宅街として知られた町の名に恥じない高級車がときおり通り過ぎていくが、基本的には、町全体にはのんびりとした空気が流れている。脇道に入ると、個性豊かな小さい店が軒を連ね、隠れ家的なバーや飲食店も多い。
 昔懐かしい優しさを所々に含んだ商店街にも、年々近代的な店構えの飲食店やヘアサロンなどが増えてきているが、それがまるで自然な変化であるかのように不思議な調和を見せている。「住みやすくなった」という声があるのも事実だが、町の変化の裏側で語られる事のない喜怒哀楽の物語が存在するのもまた事実だった。
 交通の利便性と町の近代化により、町の住人の層も若返りを見せてきている。「便利さ」、「快適さ」のみで語られる町ではなかったが、それでも若い血を導入しながらも「上原らしさ」を失わない所がこの町の良さでもある。

 塩沢の視界に、1人の老婆の姿が入ってきた。和服が似合いそうな「素敵なおばあさん」風だが、今は長袖シャツ、カーディガンなどの洋服を着ている。普段の塩沢なら気にする事は無いのだが、その老婆がほんの1時間ほど前に目の前の花屋で豪華な花束を作らせていた人物であり、そして今、その花束が無惨に潰れている事実と、高級品だがそれを主張しないスラックスに土汚れが付いている事が気になって、めずらしく振り向いた。
 この「素敵な」老婆は、年の頃は70代後半に見える。だがよく観察すれば、まだ「初老の女性」というのが正確な年齢のはずで、もし笑ったらさぞかし魅力的な女性に見えたかも知れない。だが、もう永いこと笑ったことが無いのか、口元や眉間のシワも、無表情のまま彫刻のように顔に張り付いてしまっている。そのため、実年齢よりゆうに10歳は老けて見える。
 そして今は、命令口調で花屋の店員に花束を包ませていた時以上に不機嫌そうな顔をして、近寄りがたいオーラを周囲に放っている。
 老婆は交差点の中央に立つと、アコルデの入り口が見える急な坂を見上げて、不愉快そうに大きなため息をついた。

(Chapter 1-3へ つづく)

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「アコルデ」東口

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古本屋「LOS PAPELOTES」

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酒屋「升本」

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アコルデ東口から十字路へ。

アコルデ代々木上原URL
http://www.odakyu.jp/cgi-bin/shopping/shop/shop.cgi?no=45

うえはら駅前どっとコムURL
http://www.ueharaekimae.com/

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第3回 Chapter 1-3  

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Chapter 1-3

 駅の北口には、タクシー乗り場とコミュニティーバスの「ハチ公バス」乗り場があり、代々木上原・渋谷駅間を走るこのルートは、「丘を越えてルート」と名付けられている。この名称は、古賀政男の曲名に由来している。代々木上原の観光名所のひとつでもある井の頭通り沿いの「古賀政男音楽博物館」を通って行くルートで、代々木上原駅から山手通りの富ヶ谷交差点までのアップダウンを「丘」と例えることもできる。
 タクシー・バス乗り場のある駅前から、一方通行の道路をアコルデ沿いに進んでくると、老婆の立つ十字路に出る。この通りこそが、坂の町代々木上原の「谷底」である。坂を南にへれば井の頭通り。北へ上れば高級住宅の建ち並ぶ閑静な住宅街が現れる。この町の住人にとっては当たり前の光景でも、中高年、老人にはなかなかにキツい坂である。
 老婆は十字路のほぼ中央に立ったまま、じっと坂を見続けている。その目は途方に暮れているのではなく、挑むような視線を坂に向けている。
 この老婆に何があったのか、塩沢に少しだけ興味がわき始めていた。そして、そんな自分の心の動きを分析しようとして、すぐに止めた。すでに頭に穴が開く程さんざん自己分析を試みたものの、結局何ひとつとして答えは出なかったのだ。塩沢は、ただ老婆の次の行動にだけ注意を払うことにした。
 老婆は自分に向かってクラクションを鳴らすタクシーに気づくと、鋭い一瞥を運転手に投げた。タクシーの運転手も、負けずにクラクションを鳴らし続ける。老婆は口をへの字に曲げると、三歩だけ前に進んだ。タクシーは故意とも仕方なくとも見えるハンドルさばきで、老婆の体に当たりそうになりながら脇を通り過ぎていった。
 老婆はもう一つ大きなため息をついてから、神妙な表情を浮かべて自分が歩いてきた方向を見た。その視線の先に、ショッピングバッグを手にした小学校5年生くらいの男の子がいた。眼鏡をかけた線の細い少年で、「ガリ勉」に類するあだ名で呼ばれていそうな風貌をしていている。少年はその場に突っ立ったまま、老婆をじっと見ながら何事か逡巡していた。だが、老婆と視線が合うと、あわてて視線を逸らした。
 老婆の顔が能面のように無表情になった。
「私に、なにか用かい」
「い、いえ…別に…」
「でないなら、人のことをジロジロと見るもんじゃないよ。失礼な子だね。お前の親はどういう躾をしてるんだい」
 少年はそれには答えず、ぐっと口を結ぶと、その場で回転して坂を上り始めた。老婆は「ふんっ」と鼻を鳴らし、何かをブツブツと呟きながら少年の背中を見ている。

 少年はとぼとぼと5メートルほど進んだが、意を決したように老婆を振り返ると、また老婆の元へ引き返してきた。そして、老婆に向かっておもむろに手を差し出した。
 老婆の顔が怒りで赤く染まった。
「なんだい。お前は物乞いか何かかい。お前にくれてやる物は何も無いよ」
「……いえ、違います。僕が手を引くので、一緒に上に行きましょう」
 今度は老婆がたじろぐ番だった。老婆は、一瞬だけ眩しい物を見るかのように目を細めたが、すぐにその目には別の感情が浮び上がり、虚ろな視線を少年に投げかけた。
 少年は無言でいる老婆と、横目で通り過ぎていく通行人達の視線のせいで、顔をまっ赤にしていたが、差し出した手はそのままにしていた。
 老婆の目に再び鋭い光が戻ると、小さく鼻を鳴らしてから少年を避けるように坂を上り始めた。老婆に無視された少年は、ショックで体を硬直させていた。手を差し出したポーズのまま、少年は老婆を見送っている。
 ゆっくりゆっくりと歩を進めていた老婆が、アコルデの入り口付近に着く頃には、その顔に苦悶の色が浮かび上がっていた。額には脂汗が浮かび始めている。老婆は足を止めると、いまいまし気に後ろを振り返って、未だに自分を見続けいる少年を睨んだ。
「なにボンヤリしてるんだい。さっさとここへ来て私の手を引かないか」
 少年は不意打ちを食らったように体をびくつかせたが、2秒後には老婆へ向かって走り出していた。

(Chapter 1-4へ つづく)

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「ハチ公バス」

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「丘を越えルート」の出発点です。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第4回 Chapter 1-4

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Chapter 1-4

「どこまで、ですか?」
 少年は歯を食いしばりながら尋ねた。
「なんだい、助け舟を出しておいて、もう根をあげたのかい。だらしのない子だね」
「い、いや、そうじゃなくて、ただ…」
「タクシーだよ。上でタクシーを拾うんだ。まだ先は長いんだ。さぁ、もっと力を入れて引っ張っておくれ」
 少年は、緊張と力仕事の両方で汗だくになっている。老婆も足を進めてはいるが、まだアコルデの入り口から10メートルほどしか進んでいない。
 塩沢も老婆と少年の後をついていてきているが、観察しているばかりで、手を貸そうとはしない。
「タクシー、乗り場なら、駅前に、ありますよ。上で、いいんですか……?」
 少年が息を切らせながら、遠慮がちに聞いた。
「お前は私を馬鹿にしてるのかい? そんな事は知ってるよ。私は、上でタクシーを拾いたいんだよ。分ったかい」
「……はい」
 少年は腑に落ちない表情をしたが、老婆の鋭い視線に気づいて顔をそむけた。
 アコルデから出てきた若いカップルが、2人を見かねて歩み寄ってきた。それに気づいた老婆がホッとため息をついた。少年も少なからず安堵の表情を見せた。だが、そのカップルは唐突に歩みを止めてしまった。
 老婆と少年の目の斜め前に、半袖・短パン姿のスポーツウェアを着た外国人男性が立って、老婆と少年を見下ろしていた。顔が軽く上気し、うっすらと汗をかいている。どうやらランニング中に2人を見つけて寄って来たらしい
「ダイジョブ、デスカ?」
 外国人男性は、老婆と少年に微笑みかけた。2人は何が起こっているのか分からない様子で、黙ったまま外国人男性を凝視している。
「オテツダイ、シマス」
 その外国人男性は、おもむろに老婆の前で背を向けてかがむと、ヒョイと老婆を背負って歩き出した。少年があっけに取られている内に、外国人男性は坂をぐんぐん進んでいく。
 一瞬の間をおいて、慌てて少年が追いかけた。老婆は、見ず知らずの外国人男性の背中で体を強張らせたまま、目を丸くしている。 
「アナタハ、トテモ、エライデスネ」
 外国人男性が、追いついた少年に流暢な日本語で話しかけた。少年は何を言ったらよいのか分からず、口を開けたまま、必死に付いて行く。
 「大勝軒」やクスリの「セイジョー」越え、スーパー「パルケ ミオ」の前が坂の「頂上」になる。外国人男性は丁寧に老婆を自分の背から降ろすと、「マタネ」と軽く手を振り、2人が礼を言う間も与えずにジョギングを再開して行ってしまった。塩沢が老婆と少年に追いついた時には、外国人男性は道の先にある交差点を曲がって井の頭通りへ出ていくところだった。
 硬直状態から回復した老婆は、はたと気づいて手にしていたハンドバッグに手を入れた。少年が困惑した表情のまま老婆を見た。
「チップだよ。こういう時はチップを渡すのがエチケットなんだよ。お前があの外人に渡しに行っておくれ」
「え? ぼ、僕ですか?」
「当たり前じゃないか。私が走れるように見えるのかい!」
 少年は、外国人男性が進んだ先と老婆とを交互に見ていたが、とうとう困り果てて関係のないパルケの店内を茫然と見つめた。
 一向に財布が見つからないのか、老婆はいつまでもバッグの中を探っている。少年もその様子に気づくと、心配そうに老婆を見た。
 老婆は急に手の動きを止めると、「やられた!」と叫んだ。
「スリだよ! あの外人が財布を取ったんだ! 早く、早く追いかけて捕まえておくれ!」
「え……?」
 少年は、外国人男性が消えていった先を見たが、足が動かない。
「何をしてるんだい! 私の財布が、大事な財布が取られたんだよ! 早くおいきよ!」
 老婆と少年の周りに人が集まり出していた。中には「どっちに行ったの?」と老婆に聞いてから追いかけ出す若者もいた。
 老婆の狼狽ぶりは尋常ではなく、さっきまであった威厳は霧散し、今はただの無力な老女にしか見えない。少年もまた、まるで自分が責められているかのように顔は真っ青になり、そのまま俯いて泣き出してしまった。
<事件、なのか?>
 人の輪の外で、塩沢は老婆と少年を見続けていた。

(Chapter 2-1へ つづく)

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「大勝軒」

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坂の上の「セイジョー」、「谷底」にもあります。

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スーパー「パルケ ミオ」 お菓子屋や飲料品関係。

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スーパー「パルケ ミオ」 生鮮など。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第5回 Chapter 2-1

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Chapter 2-1

 「アブソルート探偵事務所」は、ワンフロア、ワンルームの細長いビルの4階と5階に入っている。4階が依頼者と相談員が話し合う「相談室」で、5階が「所長室」となっている。「所長室」とは言っても、所長である油井潤の荷物置き場兼別宅として使用されており、普段は4階しか使用されていない。1階はこのビルの管理をしている不動産業者の事務所で、3階と2階にはそれぞれ別会社が入っている。2フロアも借りていると繁盛しているように見えるが、実際には5階はトイレ無しで、部屋のサイズも下の階の3分の2程度なので、本来は4階とセットで借りることが条件となっているのだ。
 アブソルート探偵事務所は、半年前までは5階だけに入っていた。1階の不動産業者の社長が、油井の友人の知り合いだったこともあり、トイレが必要な時は1階の不動産事務所で借りるという条件で、5階のみで入ることが出来たのだ。だが、今ではある仕事のおかげで収入が多少増えたこともあり、4階に入っていたテナントが出るのに合わせて下の階も借りたのだった。

 4階の事務所の奥にある立派な中古デスクの向こうで、油井が電話を受けている。他には応接セットと書類棚があるだけの簡素な事務所だ。ソファの前には、向かい合うような形で縦長のキャスター付きの姿見が置かれている。だが、今は上から布のカバー掛けられていて何も見えない。
 油井は誰もいない事務所で、陽気な声を上げていた。
「大丈夫ですよ。うちの調査員は優秀なんだから。どんな難しい条件でも簡単クリアで失敗なし! その分、お代は少し張りますけどね。え? ええ、もちろん知ってますよ。あの娘今テレビ出まくりですよねぇ。え? なーんだ、室田さん、アッチ側に頼まれてるんだ。ゆすりのネタでも集めてるのかと思いましたよ。いや、ジョーダンですって。はい、はーい。了解です。2、3日中には、バッチリのいい写真を持って伺いますよ。はい、はい、じゃあ、失礼しまーす!」
 油井は満面の笑みを浮かべたまま受話器を置いた。普段は携帯電話しか使用しないが、問い合わせ先が携帯電話の番号ではみっともないと、固定電話を用意している。
「小山内響子ちゃん、と。ごめんねー。御愁傷様」
 ノートパソコンの画面に映し出されているモデル風のかわいらしい女の子に、油井はワザとらしく手を合わせた。
 探偵稼業とは名ばかりで、現在の事務所の収入のほとんどは、写真週刊誌などへ売り込む「スクープ写真」でまかなわれている。事務所開設当初、油井は看板を出せないという悪条件は、ホームページや、口コミで何とかなると軽く考えていた。だが蓋を開けてみると、飛び込みの客は皆無の上、ネットからの問い合わせも全くない。そんな状態が何カ月も続き、貯えが尽きかけた時に、町を歩けば見かける芸能人たちを見て思いついたのが、この「スクープ写真屋」の仕事だった。ものは試しと、塩沢に撮らせた写真を持ち込んだ出版社のロビーで、同じように写真の売り込みに来ていた室田と出会い、その写真の出来に驚いた室田が、自分を窓口とする業務提携を持ちかけた。その結果、月に何回か同業者からまわしてもらう「おこぼれ」の浮気調査などの依頼以外は、この仕事をメインにしているのだった。相棒の塩沢には、「苦肉の策」と説得して仕事をさせているが、今更やめるつもりはない。

 事務所のドアが開いた。だが、人が入ってくる気配はない。
「おう、お帰り、お帰り。やっと次の仕事が入ったよ。よかったー。今月は写真の依頼が少なすぎて、家賃払えないかと思ったぜ」
 油井はコンピューター画面から目を離さずに、まるで部屋に誰かがいるかのように話し続ける。
「小山内響子、最近よく見るだろ? さっそくユニバースが潰しにかかってきたよ。最近上原のバーにお忍びでくるんだとさ。未成年なのにバーでカクテルときたもんだ。身分証偽造の噂もあるし、いくら元ヤンキーでも自覚が無いっていうか、頭が悪いっていうか……。他の元ヤンヤンアイドル達は、『売れっ子』として最低限の自覚を持った行動をするけどな。まぁ、こっちとしては有難い話なんだけどさ」
 油井はデスクから離れて、目の前の応接セットに移動した。これも中古で、中途半端にアンティークを主張しているが、物自体は悪くない。こげ茶色のソファセットも、一応本革だ。
油井は姿見の布カバーをめくると、150センチ73キロの体をドスンと2人掛けのソファにあずけ、正面の姿見を見た。
 そこには、いるはずのない塩沢の姿が映っていた。塩沢は、鏡の中で無表情のまま油井を見下ろしている。

(Chapter 2-2へ つづく)

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事務所の間取りです。

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アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第6回 Chapter 2-2

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Chapter 2-2

 鏡の中の塩沢に向かって、油井は似合わないウインクをした。まるで自分の相棒がそこにしか存在していないかのような態度であり、それがすでに習慣と化しているようでもある。
 塩沢はひょろりとした背の高い痩せた男だ。ハンサムの範疇には入る顔立ちだし、良く言えばモデル体型なのだが、覇気の無い「もやし男」と言えなくもない。誰に見せるのか、プレスの利いた細身のスーツに身を包んでいる。
 鏡に中で2人の目が合うと、塩沢が口を開いた。
「『探偵』の仕事はきてないのか」
「春は浮気の季節といいますが、どうもウチには縁がないようで、あいスミマセンねぇ」
 油井のふざけた物言いに冷めた視線を向けると、塩沢は無言のまま一人掛けのソファに腰を下ろした。
「ウチには『透明人間』の調査員がいまーす。どんな事件もすぐ解決ですよーって、宣伝出来れば、話は別だがな。まぁ、もうしばらくの辛抱だ。ウチの腕がいいのは確かだし、それが口コミで伝わるようになれば『普通」の仕事も増えるからさ。な? OK?」
「……」
 油井は、鏡の中で冷ややかな視線を向けている塩沢に、もうひとつウインクをすると、スマートフォンをいじくり始めた。デスクから離れはしたものの、芸能人のブログやツイッターなどをチェックすることが止められないらしい。
 塩沢は自分の中に湧き上がってくる感情に戸惑っているのか、抑えようとしているのか、口元に現れる不満のしるしが、出たり消えたりを繰り返している。
「『透明人間』に不可能はないからな。読者が驚くような写真を撮ってきてくれよ。で、さっさと現金に変えて、また『まんぷく』でたらふく焼き肉を食おうぜ」
 わずかだが、塩沢がムッとした表情を見せた。
「俺は『透明人間』じゃない。その呼び方はやめてくれ。他人が俺のことを認識しない、いや認識出来ないだけだ。服も着てるし、食べ物が透けて見えたりもしない。俺のことは見えているはずなのに、見えていないと錯覚を起こしているんだ……。俺は……」
 油井は鏡に一瞥をくれると、コーヒーテーブルに置かれた客人用のミントキャンディーをひとつ取り、口に放り込んだ。
「鏡がなきゃ、誰もお前を見つけられないんだ。似たようなもんだろ」
 塩沢は何かを言い返そうとしたが、結局何も言わずに鏡の中の自分を見つめた。<好きでこんな体になったんじゃない>と言おうとした自分を恥じていた。この世から消えてなくなってしまいたいと願ったのは自分なのだ。そして、その願いが奇妙な形で実現してしまった。
「今夜から張り込みを頼むぞ。今のところ顔を出した事があるバーは2軒だ。どちらも、一見さんは入りづらい店だが、お前なら隙を見て入れるだろう。それに、誰が最初に響子ちゃんを店に連れて行ったのかも知りたい」
 塩沢が怪訝そうな目を油井に向けた。
「室田さんが響子ちゃんの名前を出すまで、店のマスターはその事実に全く気がついていなかったらしい。顔色こそ変わったが、マスターは知らぬ存ぜぬで通したそうだ。未成年者に酒を提供したと知れたら大変だからな。だが、その連れが分かれば情報も売れる。一石二鳥だろ」
「そのマスターに迷惑がかかるんじゃないのか」
 塩沢の口調も表情もすでに普段通りで、感情があまり読み取れない。
「いや、表沙汰になる前に、かならずどこかで『手打ち』になるって。俺たちは情報を売るだけでいいんだからさ。今金欠なんだよ。今回だけもうちょい儲けようぜ。な?」
「この前の仕事の報酬はどうしたんだ」
「はぁ? なんだっけ、それ」
「前の事務所の同僚がまわしてくれた浮気調査」
 油井がワザとらしくため息をつく。
「お前ねぇ。たった一日、それも1、2時間で証拠写真をあげてくるんじゃ、報酬なんてたかが知れてるだろうが。腕が良すぎるのも困るんだよ、ホントはさ。かといって、終わってないフリをして日数を稼ぐのも気が引けるしさぁ。お前が俺の事どう思っているか知らないよ。でも、俺にも良心はあるんだからな」
「報酬が入ってきたことにはかわりがないだろう。飲み食いに使ったのか?」
「え? まぁ……、一部は、な」
 塩沢は質問をしたものの、あまり興味がなさそうな顔をしている。そして、電気湯沸かし器のスイッチを入れに立ち上がると、鏡から塩沢の姿が消えた。
「残りは、実は、買い物しちまった。衝動買い。一階の社長と話し込んでたらさ、ロードバイクの話になって、えらく盛り上がっちゃったのよ。で、ネットで検索してたら、ついポチッとな。購入ボタンを押しちゃって……」
 油井は塩沢がいる辺りに向かって話をしているが、返事がないので話を聞いているのかいないのかも分からない。鏡の中に塩沢が映っていないと、空気を相手に話をしている気がしてしまう。
部屋中にアールグレイの香りが漂ってきた。塩沢は紅茶を作る用意をしているらしく、姿は見えないが、カチャッというティーポットの音や、サラサラという紅茶の葉を入れる音がする。
「これがまた高いのなんの。あ、でも俺が買ったのは初心者向けで、まだ安物の部類だから。―――まぁ、健康のためにと思ってさ。俺メタボだし。これからは毎日自転車で通勤するぜ」
「上で寝泊まりしてるお前が、どこから通勤してくるつもりだ」
 真顔で皮肉を言いながら、塩沢が鏡の中に戻ってきた。
 「まぁまぁ」と答にならない返事をしながら、油井はプリンターのトレイから小山内響子の写真を取り出してテーブルの上に置いた。
「この娘なんだが、メイクでかなり印象が変わるうえに、すっぴんは別人レベルらしい。遠目に撮ると、まったく誰を撮ったんだか分からないって話だ。ま、クロースアップで何枚か撮ってくれば済むだろう。素通りされない様に気をつけて見張ってくれよ。私服のバリエーションの資料はまた後で渡す。後、連れがいたら、一緒に撮っておいてくれよな」
 塩沢はちらとだけ写真を見て、ティーポットの中の紅茶をカップに注いだ。
「ハッキリ写りすぎている写真は、ダメ出しが出るんじゃなかったのか」
「ああ、そうだった。―――アチラさん、多少ピンボケとかシルエットとか、やっと判別出来るレベルの写真が欲しいんだよな。つまんね―話だよな。お前の才能が台無しだよ。―――とりあえず、室田さんに選んでもらうんで、適当に何点か頼むわ。まぁ、また次回に繋がるし、今回はつまんねーのでいいや。よろしく」
「……了解」
 牛乳を少し垂らしたミルクティーを、塩沢はそっと啜った。

(Chapter 2-3へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第7回 Chapter 2-3

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Chapter 2-3

 事務所の名称を決めたのは油井だった。「油井のアブラ」と「塩沢のソルト」で合わせて「アブソルート」というのがその名の由来だ。英語表記は”Absolute”で、「完全な」、「絶対的な物」という意味である。そして、油井の好きな酒の一つに「アブソルート・ウォッカ」という物があり、それがヒントにもなっていた。
 2人は高校時代のクラスメートではあったが、学友ではあっても仲のいい「友人」とまではいかない間柄だった。表面的には飄々としていて、誰とでも仲良くなれるが、本当に仲が良くなるのは1人2人という塩沢は、基本的に個人主義だ。自分の風貌や体型を笑いに転化しながらも流行のファッションに身を包み、気のいいお調子者で通っていた油井とではほとんど接点が無かった。
 ある日、浮浪者の様な風体でさまよっていた塩沢を、偶然街中で見かけた油井が声を掛けた。高校卒業後にアメリカ留学に行っていた塩沢が、10年後、完全に日本に引き揚げてきて1ヶ月経った頃のことだ。ほとんど付き合いのなかった油井が、どうして変わり果てた姿の塩沢を見分ける事が出来たのか、それは油井自身にも分からなかったが、今となっては「運命」だったと思っている。
 そして、塩沢の特異体質に気づいた油井が、その異常さに驚きつつも、それを利用しようと思いついたのは、友人たちのコネや紹介のみで様々な仕事を渡り歩きつつも、結局は借金まみれになっていた自分への「贈り物」だと勝手に思い込んだからかもしれない。
「俺と探偵事務所をやらないか。もう名前も決めてあるんだ。俺とお前の名前、アブラと塩のソルトを合わせて『アブソルート探偵事務所』! イイだろ? お前のその特異体質を使えば、解決しない事件なんてない! 楽勝だよ、楽勝! 半年だけ俺がそこら辺の探偵事務所に勤めてノウハウを盗んでくるからさ。相棒になってくれよ。いいだろ?」
 最初こそ強引だったが、その後は根気よく丁寧に塩沢を説得し続けた。しかし、埒が明かないと見るや、油井は一言も口をきかない日がある塩沢の口を開かせようと、ノンアルコールと騙して酒を飲ませ、塩沢の中に鬱積していた感情を吐露させることに成功した。それは、今の塩沢を作り出す原因となった心のキズの事であり、アメリカ時代に起こったある事件の話だった。
 決して人には話すまいと心に決めて帰国してきたはずだった。だが実際は、一度でいいから話をしたい、話を聞いてもらいたいと思っていた自分がいたのかもしれない。自己嫌悪に陥りながらも、塩沢は後になってそう考え直した。
 油井が自分を騙した事は許しがたい行為だと、塩沢はある種の絶縁状を出した。しかし、「人間」をやめて感情を失していた塩沢が、この事で「怒ること」を思い出し、感情を取り戻すきっかけにもなったことも事実だった。まともな食事を取り、たまには風呂にも入るようになり、そして他者との交流を再び取れるようにもなった。この奇妙な体質の原因を知る人物は、油井ただ一人であり、心の中では一応油井を「恩人」だと思っている。
 結局、塩沢は半分投げやりな気持ちで、仕事の件を承諾した。変化を求めない自分と、それを求める自分とのせめぎ合いに疲れ果てた結果でもあった。
 こうして「アブソルート探偵事務所」が設立された。油井と塩沢がもうじき27歳になろうとしていた2年半前の春のことだった。

(Chapter 3-1へ つづく)

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「アブソルート・ウォッカ」イメージ。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第8回 Chapter 3-1

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Chapter 3-1

「シオリン。仕事は順調か? めずらしく時間がかかってるじゃないか。ん?」
 油井が醤油せんべいをバリバリと食べながら言った。今日は朝から引っ切り無しに食べ物を口に運んでいる。そして油井の口調には、わずかながら棘がある。
 「シオリン」とは、そのかわいらしい響きとは裏腹に、単なる「塩沢倫太郎」の略だ。油井が塩沢を「シオリン」と呼ぶのは、上機嫌な時か、不機嫌な時のどちらかで、今日に限ってはどちらとも判りかねる妙な声音を使っている。塩沢に頼らざる得ない自分の立場の弱さに対する苛立ちがそうさせているらしい。
「室田さん、振込は早いからいいけど、あまり時間がないんだよね。もうちょい急げないかな」 
「ターゲットがバーに入らないんだから仕方がない。夕方に上原に来て、『ウエストパーク・カフェ』で食事はしていたが」
 ソファに座っている塩沢は、お気に入りのリーフティーを入れたティーカップを口に運んだ。バーが開く夕方までは、アフタヌーンティーなどを楽しむ余裕がある。そのくつろいだ塩沢の姿もまた、油井のイライラを刺激している。
 写真の依頼からすでに3日が経っていた。仕事の早さに定評があっても、依頼のターゲットが都合良く希望通りの動きをしてくれるわけではない。これが浮気調査ならば、かかった時間分の請求も出来るが、スクープ写真の場合はその写真が手に入らなければ金にならない。
「あーちくしょう! あきらめて、あっちの仕事取るか」
 油井が不満をぶつけるようにデスクを叩いた。
「別の仕事依頼があるのか?」
 油井が恨めしそうな眼を塩沢に向けた。
「金にはなるかもしれないが、ダメなんだよ、アレは。すぐに解決するわけがない。っていうか、解決は無理に決まってる」
「小山内響子は今日は上原には現れないと思う。深夜の3時まで仕事が入っているはずだからな。時間ならあるぞ」
「聞いたら笑うぜ。――無くした財布を見つけて欲しいんだと。それって探偵の仕事か? 違うだろう?」
 苦笑しながらも、多少怒ったように油井が言った。
 塩沢の脳裏に、先日の老婆と少年、そして外国人男性の姿が蘇ってきた。
「スリにあったって話もあるらしいが、その線は薄いらしい。で、仮にどこかで財布を落としてたなら、もう誰かに拾われてるか、運が良くても中身を抜かれた財布がゴミ箱から出てくるか、そんなトコだろ? それに、今は公共のゴミ箱ってほとんど見当たらないしさ。どのみち、時間が経ち過ぎちまってる。無理なんだよこの件は、さいしょっから」
 油井はデスクチェアに座ったまま、子供のように体を回転させた。「あー」と声を出しながら何度も回り続けている。
「依頼主は、小学5年生くらいの子供か?」
 油井があわててデスクに手を置いて回転を止めると、体を起こして鏡を覗き込んだ。
「なんだよ、お前、あの騒ぎのこと知ってんのか?」
「それとも、お婆さんか?」
「なんでそんな事知ってんだよ? 気持ち悪い奴だな。――あ、お前、花屋の所にいて、一連の騒動を見たんだろ? プライベートをシェアしない芸人コンビじゃあるまいし、少しくらい教えてくれりゃあいいのに」
「お前に、この町の出来事を? 芸能人情報以外に?」
「な、なんだよ。俺をハイエナみたいに言うなよな。情報収集は、俺たちの仕事に欠かせない大事なものだろ。仕事がなかったら、ココを畳まなきゃいけなくなるんだぞ」
「俺は、一向に構わないが」
「いや、まぁ、とにかくだ! 依頼者はアイツだよ。交番のお巡り」
「ああ、徳田くんか」
 代々木上原駅前交番の巡査でありながら、この町の大地主の息子でもあり、なぜか部署の移動も昇進もせずに、代々木上原だけで勤務をし続けている。自称「上原の両さん」だ。
「金が有り余ってんだよアイツ。普通見ず知らずの婆さんと子供を助けるために、自腹切って探偵なんて雇うか?」
「俺たちの事も助けてくれようとしているのかも」
「ホントかぁ? じゃあ、着手金払わないってのはどういうことだよ」
「それは、当人に聞いてみるんだな。なんでまた彼がこの件に関わってるんだ?」
「財布を無くした当事者のばあさんに加えて、ツヨシって男の子がノイローゼになっちまって、見てられないんだとさ。俺だってノイローゼになりそうだっつーの!」
 塩沢は神妙な顔つきになると、先日の「事件」の後で目撃した交番でのやり取りを思い出した。

* * *

(Chapter 3-2へ つづく)

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「ウエストパーク・カフェ」入口

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「ウエストパーク・カフェ」外の席

※今回の写真はYahoo!ロコからの転載です。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第9回 Chapter 3-2

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Chapter 3-2

 井の頭通り沿いの高架下近くに建つ代々木上原駅前交番に、野次馬を含めた小さな人だかりが出来ていた。その中には、力落ちして歩けなくなった老婆を背負ってきた男性や、ショックを受けてうなだれている少年の手を引いて来た女性、そして外国人男性を追いかけたものの結局見つけられずに戻って来た若者などもいて、それらの人々が交番の外で興奮気味に話をしている。
「この町に住んでる外人なんてすぐみつかるでしょう、お巡りさん」
「でも、ここに住んでる外人さんて、大手町の金融マンが多いって聞いたことあります。そんな人が財布なんか盗みますかね?」
「いや、この町の外人全員が金持ちとは限らないでしょう? 私はあの外人がこのお婆さんをおんぶしている姿を見た時、なんか怪しいなと思ってたんですよ」
「アンタ、お婆さんの叫び声を聞いてパルケから出てきたんでしょうが。適当なこと言いなさんな」
「な、ひ、人が心配で言ってるのに、なんてことを……!」
 塩沢はガードレールに腰掛けながら、人だかりの外から中の様子を伺っていた。 
「分かりました。分かりましたから。みなさん少し静かにして下さい。片瀬さんの話が聞こえないでしょう」
 交番の巡査部長がみなを遮るように声を上げた。
 意気消沈している老婆、片瀬とき子は、椅子に座ってうな垂れている。体もひとまわり縮んでしまったように見える。その横には少年、平田ツヨシがべそをかきながら並んで座っていている。
「もう一度聞きますが、財布を落とした、という可能性はないんですか?」
「……もういいです。……ただ、見つかってさえくれれば、後のことはどうでもいいんです。お金だってカードだって、取られていても構わない。ただ、財布の中身が、他の物が戻ってきてくれさえすれば……」
 交番に入ってきた当初、とき子は半狂乱の一歩手前といった感じで、「あの外人を捕まえてくれ」と必死に訴えかけていたが、今はうそのように静かになってしまっている。
「で、後ろからついて来ていた君は、その外国人男性が妙な動きをした。そう、例えば、何かをズボンのポケットに仕舞っていたとか、そういう事には全く気がつかなかったんだね?」
 下を向いたまま、ツヨシが小さく頷く。
「分かりました。では、その外国人男性を見つけて話を聞きます。何か分かり次第片瀬さんにご連絡します。それでいいですか?」
 巡査部長がとき子に向いて、言った。
「……はい。よろしく、お願いいたします……」
 とき子がか細い声で答えた。
「……お父さんと、お母さんに、このこと、話すんですか……?」
 顔を上げたツヨシが、不安げに聞いた。
「ああ、一応報告はしておかないといけないからね。君が何か悪いことをしたわけではないんだ。おじさんがよく話しておくから、心配いらないよ」
 巡査部長の答えに安心するどころか、ツヨシの顔は徐々に青ざめていく。巡査部長がまた声を掛けようとすると、その背後に立っていた徳田巡査が、ツヨシの肩にポンと手を置いた。
「いっしょにそこのファミマでも行こうか。最近出た昆虫キャンディー知ってる? アレって、ホントに乾燥させた虫の粉を使ってるんだってさ。でも、コレが意外とうまいんだよ。食べたことある?」
 ツヨシが徳田を見上げた。だがその目の焦点が合っていない。心ここにあらずといった呈だ。徳田がほほ笑みながらツヨシの返答を待っていると、ツヨシがかろうじて頭を左右に振った。
「じゃあ、食べてみなくっちゃ。今後のトレンドになる品だよ」
 巡査部長が徳田巡査を見た。が、とくに何も言わない。
「部長、ちょっと出てきます」
 調書をまとめていた若い婦警は、「またか」といった目で徳田を見た。 
「……好きにしたまえ」
 巡査部長は、徳田に向かって小言を言いかけたが、「観衆」の目が徳田の行為を認めている様子に気がついて口を閉じた。
「ありがとうございます!」
 人垣の中から徳田とツヨシが出てきた。とき子は、どこか悲し気な視線をツヨシの背に向けていた。
 うな垂れて歩いているツヨシの姿と、呆然としているとき子を見て、塩沢は久しぶりに胸がつまる感覚を思い出していた。だが、自分には関係のない事だと思い直し、2人に背を向けて事務所へ戻って行った。

* * *

(Chapter 3-3へ つづく)

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代々木上原駅前のファミリーマートです。少し先にセブンイレブンもあります。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第10回 Chapter 3-3

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Chapter 3-3

「その仕事、引き受けたのか?」
「成功報酬のみで50万。言った通り、着手金はナシ。金額に不満はないが、時間の無駄なのは分かり切ってるだろ。いつかは撮れると分かっているスクープネタの方がまだマシだって。やっぱ、落し物探しなんてやめよう。こっちに取りかかってる内に、響子ちゃんに動かれたら元も子もない」
「いや、その仕事やってみたい」
 油井は驚いて鏡の中の塩沢を見た。
「自分からやりたい、なんて、一体どうしちまったんだ、お前? 盗撮の仕事に嫌気がさしたのか? いや、それは困る……。いやいや、いったんそれは脇に置いておいて、だ。あのな、この仕事はいくら特異体質のお前でも無理だぞ。探し物をするのに『透明人間』である必要ないだろう? お前は、聞き込みすら出来ないんだぞ。やめとけって」
 塩沢は何か考えに浸っていて、特に反論はしない。
「あっ! もしかしてお前、あの婆さんの名前が『とき子』っていうんで、アメリカ時代の元カノ思い出したんだろ? それで、気になってんだな」
 塩沢は一旦閉じた目をゆっくりと開き、鏡越しに冷めた目で油井を見た。「気」を殺して生きている塩沢の体から、いっきに負と威圧のオーラが立ち上がった。
「っと、ワルい。……悪かった。チーちゃんの事には、二度と触れない約束だったな……」
 塩沢が油井から視線を外すと、疲れたように床を見つめた。
「まぁ、いいよ。日中は探し物の件で動いてもらって、夜は写真と掛け持ちってのでもいいなら、引き受けるよ」
「―――2、3日くれればいい。財布の落とし場所は、だいたい見当はついている」
 油井が丸い顔の中の丸い目を、さらに丸くした。
「『落とし場所』って、お前。じゃあ、スリだ何だってのは、やっぱり間違いなのか?」
「ああ。薄手のスポーツウェアのポケットに財布を忍び込ませるのは、膨らみが目立ちすぎて無理だ。走っていればなおさらだろう。お婆さんが失くしたのは、普通サイズの財布だからな。相手の目を欺く奇術師のようなスリでもいたら、話は別だが」
「―――よし、わかった。細かい説明はいいや。でもひとつ約束してくれ。3日後には、響子ちゃんの写真の仕事に戻る事。それまでは自由に動いてくれていい。写真の件は後でよろしく頼むぜ。室田さんに約束しちまってるからな」
「了解」
「よっしゃー! これで『まんぷく』5回、家賃も払って、ロードバイクも完済だぜ!」
 油井は今にも踊りそうな勢いでデスクチェアにドスンと座ると、ノートパソコンを立ち上げて作業し始めた。
 そんな油井をよそに、塩沢は神妙な顔で、向かい側のビルの屋上と事務所の窓枠の間に見える狭い空を見つめた。夕暮れ前の空にほんのりと赤みがさしている。この部屋から見る空に、塩沢は少しばかりの広がりを感じていた。
 塩沢は帰国して以降初めて、自分の異常体質を容認する気になっていた。今では、自分がこの体質を手に入れたのには、何か理由があるのかもしれないとまで考えられるようになっていた。だが同時に、底なし沼の中から「明るい未来」を否定していた自分が、出口を探し始めている事に戸惑いと違和感を覚えてもいた。
 アメリカのどこかにいるはずの千波時子の顔を思い出した。長い間忘れていた顔。笑顔ではない。思い出したくてもその勇気が持てなかった自分を嘲笑っている顔だった。
<もし、許されるのなら、どんな形でもいい、自分の犯した罪を償わせてほしい……>
自分の思いが届くようにと、広大なアメリカの空を思い描きながら祈った。
 いつの間にかアマゾンの欲しい物リストを眺め始めていた油井を残し、塩沢は事務所を後にした。

(Chapter 4-1へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第11回 Chapter 4-1

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Chapter 4-1

 ジョギング中のイギリス人ジェームズ・R・ボネットが暴漢に襲われたのは、翌日の土曜日の早朝だった。
 東京消防庁消防学校前の常磐橋から代々木上原駅へ向かって、まだ人気のない長い坂道を走っていたジェームズは、その途中でストレッチをするために代々木大山公園に入った。その直後に何者かに棒状の物で頭部殴られ、昏倒した。時間は午前6時20分頃で、その襲撃を目撃した者はいない。
 頭頂部から血を流して倒れているジェームズを発見したのは、公園に設置されている野球場を利用しに来た少年野球チームのメンバーで、ジェームズはその後すぐに病院に運ばれた。命に別状はなく、話も出来る状態だが、犯人の顔は見ていないとの事だった。
 徳田が仕事の依頼でアブソルート探偵事務所を訪れた際に、油井に伝えていた情報によると、ジェームズ・R・ボネットは金融情報アナリストで、東京支社に勤めるようになって4年になる。代々木上原駅界隈でも、高級住宅街として知られる大山町に越してきたのが1年半前だ。給料は申し分なく、妻と7歳になる娘が1人いる。家族を大切にする良き夫であり、また父であるとの評判だが、1人の時間を大切にする面も強く、奥多摩などに1人でハイキングに出かけることも多いという。
「おい塩沢、まずいぞ! あの外人、何者かに襲われたっていうじゃないか! もしかして犯人は、まだあの外人がスリだと思っている婆さんか小学生じゃないのか?!」
 届いたばかりのロードバイクで町を走り回っていた油井が、徳田から話を聞いて慌てて事務所に飛び込んで来た。
 その時、塩沢は昼食のカップ麺を食べていたのだが、返事はなく、いつものように姿も見えず、ただラーメンを啜る音だけが聞こえてくる。油井はこの光景には慣れているとはいえ、奇妙さが薄れるわけではなく、急いで姿見のカバーをめくって鏡の中を覗き込んだ。
鏡に映っている塩沢は、落ち着き払ってラーメンを食べ続けている。鏡の中で目が合うと、塩沢は目をパチクリとさせて挨拶をした。
「お前、なに落ち着き払ってんだよ。あの2人を心配してたんじゃなかったのか?」
「事件には興味はあるが、彼らを心配していると言った覚えはない」
「ったく、素直じゃねぇなぁ! とにかく、この町で傷害事件が起きたんだぞ。それも、お前が『やりたい』って言った件と関連があるんだ。少しは興味をしめせよ」
 塩沢が手にしていたカップ麺をテーブルに置くと、鏡の中から油井を見つめ、
「まず、あの2人に、体の大きい外国人を襲えるとは思えない。2人ともボネットさんに比べてひ弱すぎる。仮に、あの2人か、そのどちらかが犯行を行ったとしても、バットか何かを振ったところで、一撃で相手を気絶させるほどの力を出せるかは疑問だ。次に、彼が倒れていたのは公園の中央で、周囲には人が潜んでいられるような場所はない。気づかれずに忍び寄って襲う事など到底無理だね」
 淡々とした説明口調で言った。

(Chapter 4-2へ つづく)

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常盤橋から消防技術安全所を見た風景です。

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常盤橋から代々木上原駅へ。まだ先は見えません...。

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代々木大山公園

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大きなジャングルジム

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ゾウさんすべり台

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第12回 Chapter 4-2


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Chapter 4-2

 慌てふためいて入って来た自分が急に恥ずかしくなり、油井はゆっくりとソファに向かうと、座って足を組んだ。だが、体中から吹き出る汗がソファに染み込んでいくのを感じると、すぐにまた立ち上がり、簡易キッチンの冷蔵庫へ向かった。
「お前、現場を見て来たのか?」
「ああ、偶然だが。救急車に乗り込むボネットさんも見た」
「ふーん………」
 油井は、冷たい水を一気に飲み干した。
「じゃあさ。木の上から棒を振りおろしながら飛び降りるってのはどうだ? 力も加わるし、不可能ではないだろ」
「まるで、あの2人のどちらかを、犯人に仕立て上げたいみたいだな」
「いや、まぁ、その可能性の話だよ、単なる可能性の」
「とりあえず、それも無いね。深夜でもない限り、木の上に人がいたら、外から丸見えさ。ボネットさんでなくても、そんな所へは近寄らない。それに、彼が倒れていた場所の周囲に大きな木はない」
 油井が不満そうに口を尖らせる。
「じゃあ、誰かを雇って襲わせるとか……?」
「何のために? 彼の事をスリの犯人だと思い込んでいるとしても、なぜ最初に『財布を返して下さい』と問いつめる事もせず、いきなり襲いかかるんだ? おかしいだろう」
「ほら、外人だし、ちょっと怖いし……。あー、クソ! ハイハイ。もういいです 。失礼しました! お前があんまり俺の説を簡単に否定するから、ついむきになっちまった」
 塩沢は鏡の中から退場して、ゴミを片しにキッチンへ向かった。
「この事件は、すぐに解決すると思う。彼はミスを犯したからね」
「は? なになに? どういう事だ? ちゃんと教えろよ」
「―――いや、この件には俺たちはノータッチだし、事件解決後に、もし俺の推理が当ってたら話すよ」
「ほーう。じゃあ俺も、『事件解決後』に、俺の本当の推理を教えてあげようじゃないか」
 塩沢がいると思われる方向へ向かって、油井がニヤニヤしながら言った。
ふいに反対側にあるデスクの上のノートパソコンがカチャカチャと音を立て始めて、油井がビクッと体を震わせた。
「鏡の裏を通るなっていつも言ってるだろ! ポルターガイストをするなって! 分かってても、まだちょっと慣れないんだからさ!」
 塩沢が珍しく小さく笑い声をあげた。
「いや、すまん。ワザとではないんだが。―――では、お詫びにひとつだけ言うと、たぶんこれは、ボネットさんの知人の犯行だ。彼は犯人をかばっている。日本の警察は、十分優秀なんだ。俺たちの出る幕じゃないよ」
「ちぇっ、つまんねーの! 俺たちがこの町に越して来てから、初めて事件らしい事件が起こったってのに、出番はナシかよ」
 油井は姿見の角度を変えてから、飛び込むようにソファに座った。
「おや、ウチはただの『盗撮屋』で、人から恨みを買うのが仕事だと思っていたが」
「ぐおーっ!」
 油井は、ワザとらしく心臓をナイフで刺されたような演技をしてソファに倒れ込んだ。
「いや、今回もだな、これは未成年の飲酒を警告する意味で、人助けなんだよ。ホントに善意でだな……」
 塩沢はみなまで聞かずに席を立つと、ドアへ向かって歩き出す。
「じゃあ、出かけてくる」
「タイムリミットまで後2日だぞー!」
 油井がソファに倒れたまま言った。
「了解。間に合わせるよ」

(Chapter 5へ つづく)

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春にはきれいな桜が満開です。

渋谷区のHPからの施設紹介ページです。
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/park_ooyama.html

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第13回 Chapter 5

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Chapter 5

 代々木上原駅周辺で食料品を買える店は、コンビニ、青果店、精肉店、お豆腐屋、オーガニックフード店を除くと、中規模の3つのチェーン系ストアがある。1つはCGC加盟チェーンのスーパー「パルケ ミオ」。2つ目が、老舗チェーンの「丸正食品」。そして、代々木上原で最も新しい駅ナカのお洒落なスーパー「TOKYU OX」だ。
 その中の「パルケ ミオ」に、平田ツヨシはいた。パルケは斜め前同士で2店舗あり、生鮮を扱う店舗と、飲料、缶詰、お菓子などを扱う店舗に分かれている。
 ツヨシは、「食玩」といわれるお菓子をうつろな目で見つめていた。お菓子におもちゃが付いてくるのではなく、メインがおもちゃで、気持ち程度にラムネ一粒がお菓子として付いてくるという商品だ。昔は付録のカード目当てにお菓子を食べずに捨ててしまうという問題がよくニュースになったりしていたが、これならばその心配はあまりない。
 ツヨシは最新の仮面ライダーの食玩を見ていた。「シンボル」と呼ばれる世界の主だった宗教を示すマークが刻印されたタトゥと、変身ベルトに装着する「ガイア」と呼ばれる球体のパズルが箱に入っている。宗教戦争を題材としたかなり冒険的な作品で、好き嫌いがはっきりと分かれるダークな作品だが、ツヨシはその暗さに魅かれていて、大好きな番組だった。毎日の勉強漬けの日々から、毎週日曜日の朝、その番組を見ている時だけは別世界で想像力の羽を広げ、陰鬱な気持から解放される気がするのだ。
 ツヨシは、そっと棚からお菓子を1つ取り上げた。
「なにしてんの! 早くこっちにいらっしゃい!」
 ツヨシの母、愛美が、お菓子を手にしながら床に座り込んでいる息子を見て血相を変えた。ツヨシとは対照的に小柄でちょっと太めな愛美は、神経質そうな目を周囲に向けながら小走りで進んでくる。ツヨシの手からお菓子を取り上げると、元にあった場所に放り投げてから息子の腕をつかむと、引きずる様に立ちあがらせた。
「誰のせいで丸正に行けなくなったと思ってんのよ、アンタは!」
 小声ながらも母の鋭い声が、ツヨシの耳に突き刺さった。
「また万引きなんてしてごらん! 今度こそ家から出てってもらうからね!」
「……」
 ツヨシは母親の顔を見ることも、それに返事する事もなく、たたぼんやりとした眼差しをお菓子の棚に向けている。
「まったく、何考えてんのか、ホンっト分からない!」
 愛美がツヨシの手を掴んだまま歩きだそうとした途端、ツヨシは母親の手を振りほどいて、持てるだけ全部の仮面ライダーの食玩を抱え込んで走り出した。
「あっ! コラっ! バカー!」
 声は出したものの、愛美の足は硬直して追いかけることが出来ない。
 ツヨシは店の出口を目指して走って行く。
「誰か、誰かボクをつかまえて下さい! ボクを、罰してください!」
 ツヨシが悲痛な声を上げた。
 自然に出入口の自動ドアが開いた。だが、誰かが入ってくる気配はない。ツヨシは泣きべそをかきながら、外へ飛び出そうとした。
 ドアの前に着いたツヨシは、見えない壁にぶつかったかのように店内に弾き飛ばされた。ツヨシの手から離れた食玩が、宙を舞う。その直後、パルケの前を配送のトラックが通り過ぎて行った。
ツヨシが床に倒れたまま、不思議そうな目をドアに向けた。
店内に入り込んできた光が、ふいに遮られた。
床に倒れているツヨシの上に、あるはずのない人影が落ちていた。

(Chapter 6へ つづく)

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今放映中の「仮面ライダー ウィザード」の食玩です。なお、作中の「仮面ライダー」は筆者の創作です。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第14回 Chapter 6

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Chapter 6

「まだ進展は、ないんですか?」
 アブソルート探偵事務所の4階で、私服姿の徳田がソファに座りながら、自分が差し入れに持ってきた「haritts」のドーナツを頬張りながら聞いた。
徳田は不満顔ではなく、なんとなく気になるので聞いてみたという、まるで天気の話でもしているような表情だ。
 油井はデスクの向こうでケータイメールを読みながら、「ああ」と曖昧な返事をした。
 メールはスクープ屋の室田からのものだった。文面には「K.O.の写真、至急必要。3日以内。以後キャンセル。」と書かれている。油井は憂鬱な顔をして、窓から下の商店街を眺めた。
「あの子、また万引きしちゃいましてね。母親は半狂乱で怒りまくるし、あれじゃ、子供が可哀そうで、可哀そうで。俺、『お受験』ってしたことないんで分かんないんですけど。いろいろ大変なんでしょうね」
「さぁね。俺にも分からん世界だよ、実際」
 油井は、不愉快そうに答えた。依頼人に「まだ?」と聞かれるのが嫌いな上に、目の前に浮いている札束が、底なし沼に徐々に沈み始めているような気分を味わっていた。
 スマートフォンをいじくりながら、油井は塩沢に電話をしたい欲求と戦っていた。塩沢のケータイはバイブレーションのみの設定にしているとはいえ、調査中はむやみに電話をしない約束になっていた。いくら「透明人間」でも、ターゲットの目の前で突然バイブ音が鳴りだしては、大騒ぎになってしまう。
「外出禁止令が出されたそうなので、もう万引きはないと思うんですけどねぇ。で、俺、盗んだお菓子と同じ奴を『大人買い』して、家に届けに行ったんですけどね、もういらないって言うんですよ。母親に言わされてるって感じじゃなかったし、やっぱりストレスのせいで万引きをしたんですかね。俺、ストレスとは無縁の生活をしてきたんで、いまひとつピンとこないんですよ」
 油井が憎々しげに徳田を見た。
「俺の日常ってさ、ストレスとの闘いなのよね。君によーく分かるように詳しく説明してあげてもいいんだけど、その前に着手金、払うように考え直してくれない? それで俺のストレスはスーッと消えていくんだけど。どうかな?」
「着手金って、分からなくはないんですけど、個人的には成功報酬プラス必要経費後払いっていうんなら、いいと思うんですよ。でも実際は、仕事に失敗しても、着手金は返ってこないって話じゃないですか。あ、油井さんのトコはどうしてるのか知らないですよ。でも、なんか気に入らないんですよね。個人的な感想で、ホント申し訳ないとは思うんですけど」
 気持ちの悪い作り笑顔のまま、油井の顔が凍りついた。
「油井さんトコの調査員さん、塩沢さんでしたっけ? まだお会いしたこと無いですけど、優秀な人なんでしょ? 大丈夫ですよ。それに、ストレスフリーになっちゃうと、油井さんのストレスに関するレクチャーに熱が入らなくなっちゃうでしょ? これ、もう1つ貰いますね」
 徳田が別のドーナツに手をのばす。
「へいへい。どいつもこいつも、まったく……」
 ブツブツと小声で呟きながら油井がテーブル上のドーナツに手をのばしかけた時、油井のスマートフォンが軽快なマーチング・メロディを奏で始めた。油井はビックリしてドーナツを床に落としてしまい、あわてて拾おうとしたが、画面に「シオリン」と映し出されているのを見て、思わず立ち上がって電話を受けた。
「はいよ! ……うん、うん、は? 俺が? やなんだよフィールド系は。俺、子供苦手だし……。え? チョイ待てよ。余計な出費は勘弁しろよな。―――そりゃあ金は欲しいよ。でもさぁ……!」
 油井が徳田を見た。徳田が興味深げに油井の様子を見ている。油井の目には、徳田がアタッシュケースに現金を入れて持ってきたビジネスマンの様に映っている。
「オーケイ、分かったよ。じゃあ、後で詳細を詰めよう。―――もう我慢できない。今日の晩飯は『まんぷく』だ。いいな!」
 油井が話し終えると、徳田が目を輝かせて詰め寄ってきた。
「俺も、焼肉に参加してもいいですか? 塩沢さんにまだお会いしたことないんで。俺、奢りますよ」
 ビックリした油井が、「うっ!」と妙な声を上げた。
「奢り、うーん、奢りかぁ……。いやぁ、実に魅力的なオファーだけど、ダメなんだよ。パートナーがね、人見知りが激しくって。他人が来ると逃げちゃうんだ……。残念だけど、ホンっトに残念だけど、ダメ、なんだよなぁ……」
「それで、よく調査員なんて出来ますね。不思議な人だなぁ」
「え、いや、『仕事人格』、ってのがあってね、まぁその二重人格って言うか……」
「わかりました。でも、その内、ちゃんと紹介してくださいね。じゃ、引き続きよろしく!」
 徳田は、食べかけのドーナツを口に放り込むと、片手を上げて挨拶をし、事務所を後にした。
 安堵のため息をついて、油井がデスクチェアに深く腰掛けた。
 いつの間にか靴で踏みつけられていたドーナツが、デスクの下で粉々でなっていた。絨毯の中深くにドーナツの欠片が入り込んでいるのを見つけると、油井はノートパソコンを開いて、ハウスクリーニング業者のサイトを調べ始めた

(Chapter 7へ つづく)

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ドーナツとコーヒーの店「ハリッツ」。民家を再利用した「隠れ家」的な渋い店構えです。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第15回 Chapter 7

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Chapter 7

 片瀬とき子が再び代々木上原を訪れたのは一週間ぶりで、スリ騒ぎの一件以来初めてのことだった。
 ジェームズ・R・ボネットが傷害事件に巻き込まれたため、スリの件は現在棚上げ中だ。今回は、一週間前にやり残したことを終わらせるために、再びこの地を訪れたのだった。
 とき子は代々木上原駅の改札を抜けて、南口から階段で下へ降りると、タクシーとハチ公バス乗り場をそのまま抜けて、真っ直ぐに駅前の小さな公園へ足を踏み入れた。
 入り口脇に「渋谷区立 西原児童遊園地」と看板が出ているが、10坪に満たない敷地内には、ブランコとベンチしかない。日曜の朝の人通りとしてはそれなりにあるが、みな目の前を素通りして行く。ここで見かけるのは子供の姿よりも、煙草をふかしに立ち寄る大人の姿ばかりだ。そして、今は誰もいない。
 とき子は公園内をぐるっと見まわし、ベンチの下やフェンス脇を確認すると、仏頂面でブランコに腰掛けた。何かを逡巡しているのか、ぼうっとした表情をしていて、以前ほど眼に力もない。財布を無くした時分の慌てていた姿や、その後の憔悴しきった態度とはかなり違う、どこか淋しげな普通の老婆に見える。
 とき子は、もっと前にこの町に戻ってきたかったが、なかなか足が向かなかった。今までは、ある種の勇気を持って、代々木上原へ来ていたのだが、その理由もなくなってしまっていた。今日の用事を済ませたら、もう二度とこの町に来ることはないだろう。そんな決意と覚悟を持って、とき子はや来ていたのだった。
 しばらく遠い目をしていたが、「よしっ」と声を出してブランコから立ちあがった。
 その時、風もないのに隣のブランコが揺れた。とき子は不思議そうに隣を見ていたが、公園の奥の細い裏道から入ってきた20代の若者に気が付くと、視線をそちらへ向けた。目に怒りの色が浮かび上がってくる。
「こらっ、お前! 私に謝らないか!」
 若者が目を丸くしてとき子を見たが、
「ああ、あの時の婆さんか」
 と、うんざりした顔をしながら、無視するようにシャツのポケットから煙草を取り出した。
「年寄りを転ばせておいて、謝りもしなければ、手を貸そうともしない。ふざけた男だね、まったく!」
「あのねぇ、言いがかりをつけるのも大概にしてくれよな。あんたの命令で、ブランコの振りを大きくしてやったんだろ? それで転んじまったのは、まぁ俺も、多少は悪いと思ったさ。でも、ひとりで起き上がって、逃げるように裏口から出て行ったのは、婆さん、あんただぜ。あまりに動きが機敏だったんで、こっちがビックリしたけどな」
「だったら、追いかけてでも謝るんだよ。そんな言い訳が通用するもんかい」
「キッツイ婆さんだな。ま、いいよ。俺が謝って気が済むなら、謝るよ。―――あの時は、失礼しました。これでもういいだろ。もう俺の憩いの時間をじゃましないでくれる?」
 若者は煙草に火を点けると、そっぽを向いて煙草を吸い始めた。近所に住んでいるのか、寝巻と兼用に見えるスポーツウェアの上下を着て、足元はサンダルという出で立ちだ。禁煙の部屋を借りているのか、それとも煙草の煙を嫌う彼女の言いつけを守っているのか、この公園を自分の『喫煙所』にしているらしい。
 とき子は、手にしていた折りたたんだままの日傘で、若者の足を叩いた。
「いって! なにすんだよ!」
「謝れと言われて、簡単に謝ってどうするんだい。情けない男だね、お前は。それよりか、お前、私が落とした財布、ネコババしてないだろうね」
 今度こそ若者の堪忍袋の緒が切れた。若者は、怒気を含んだ顔で怒鳴った。
「いい加減にしろ、このクソ婆ッ!」
 若者がとき子の日傘を奪い取ろうと手をのばした。だが若者は、まるで廊下を走って滑る時のように突然のけ反り、のばしたその手は空を掴んだまま後ろへ転倒した。
 とき子は地面にうずくまる若者を見下ろしながら、
「罰があたったんだよ。この事に感謝して、間違いから少しは学ぶんだね」
 若者は地面に強く背中を打ちつけた衝撃で息が詰まったのか、体を丸めたまま地面にうずくまっている。
 とき子は公園から出ていくと、通りかかった中年男性に若者を起こしに行くように命令してから、十字路の「花市場」へと向かって行った。

(Chapter 8-1へ つづく)

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「西原児童遊園地」

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たまに、お母さんに連れられて、小さい子がブランコに乗っている姿を見ます。ちょっと和みます。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第16回 Chapter 8-1

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Chapter 8-1

 とき子が「花市場」現れると、前回対応した女性店員がとき子に気づいて、一瞬たじろいだものの、若干ひきつった笑みを浮かべて近寄ってきた。とき子はそれを手で制すると、誰にも声をかけることなく、自ら前回作ったのと似た花束を作り、レジへ持っていき、支払いを済ませた。黄色のチューリップや白のヒヤシンス、紫のペチュニアにオレンジのマリーゴールドなど、その他にもカラフルで若々しい色合いの花束だ。
 店から出てきたとき子は、その花束をじっと見つめて、小さなため息をついた。とき子は、十字路を北へ向かって歩き始めたが、その歩みはどこか頼りない。
 商店街北側のエリアにも小さな店がひしめき合っている。魚屋さんの居酒屋「さかな 幸」や信州安曇野四元豚の豚しゃぶの店「豚舞」、アジアンテイストなヘアサロン「entrir」などがある。その先の裏通りには、隠れ家的なバーなども点在しており、油井が贔屓にしている店があるのもその裏通りの店だ。お金に余裕がある時に行う油井の食べ歩きの趣味は、この町にいる限り尽きる事がない。
 とき子が裏通りの十字路に着くと、その角にあるカフェ「ルイス クレッセント」から徳田が出てきた。どうやら店でコーヒーを飲んでいたが、とき子を見つけて出て来たらしい。徳田は油井の事務所で食べたドーナツだけではお腹が満たされず、そのままこの店へ流れ着いたのだった、
 通せんぼでもするかのようにとき子の目の前に立つと、徳田が片手を上げてとき子を制した。口の中に入っていたパンを飲み込むと、にこっと微笑んでから口を開いた。
「片瀬さん。奇遇ですね。町に御用事ですか?」
 とき子はしばらく私服姿の徳田を睨むように見ていたが、合点がいったのか「ああ、あの時のお巡りさん」と言うと、表情を戻して丁寧にお辞儀をした。
「どちらまで、行かれるんですか?」
 とき子は、一瞬の間を開けて、
「ええ、ちょっとそこの、代々木大山公園まで」
 と、気後れしているような口調で答えた。
「ええ? 結構な道程ですよ。長い坂道がありますけど、大丈夫ですか?」
「……はい、たぶん。ゆっくりと行きますので」
 とき子は淋しげな微笑みを浮かべた。
「ちょうどよかった。少しお話したい事もあるので、ご一緒しますよ」
 徳田は対照的な爽やかな笑顔を見せると、カフェにいったん戻ってキャッシュをテーブルに置き、薄手のコートを取ってきた。
「では、参りましょうか」
「はい……」


(Chapter 8-2へ つづく)

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魚屋さんの居酒屋「さかな 幸」

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安曇野四元豚の豚しゃぶの店「豚舞」

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アジアンテイストなヘアサロン「entrir」

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マスター思い出のイギリスの町のストリートネームにちなんだ「LEWES CRESCENT」
トップ画像は、こちらの自慢のシチューの写真です。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第17回 Chapter 8-2

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Chapter 8-2

 商店街の戻り道として使われる一方通行の裏通りを、とき子と徳田が並んで歩いている。今は徳田がとき子の花束を手にしていた。
「すでにご存じだとは思いますが、あの外国人男性、先日大けがをしましてね」
「ええ、聞いています……」
「その事件の前日なんですが、あの方に話を聞かせてもらった時に、まぁ、笑い話にしてくれたんですけど、スリをしたという証拠は出てこないし、かなり裕福な生活をしている人物で、あの人が片瀬さんのお財布を取ったとは思えないんですよ」
 徳田が恐る恐るとき子の顔を覗き込むと、とき子は少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「……はい、たぶん私がどこかで落したんでしょう。よく確認もせずに大騒ぎしてしまい、あの方にご迷惑をかけてしまいました」
「え? ―――じゃあ、訴えは取り下げ、ということでいいんですね?」
 とき子の変わりように驚きつつ、徳田が尋ねた。
「はい。ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません」
とき子が丁寧に頭を下げて謝ると、徳田も恐縮して、同じように頭を下げた。
「あの外人さんのお宅は、この近所になりますでしょうか?」
「ええ、そうなんですけど、あの人も色々と大変な時ですし、私から伝えておきますよ。大丈夫です」
 とき子がもう一度頭を下げた。
 クモの巣状に広がる4差路へ出てきた。右手の長く急な坂を登り切った所に「代々木大山公園」が現れる。渋谷区立公園のなかで一番広く設備が整った公園で、セレブママの集会場とも言われている。奥には隣接した『代々木大山公園運動場』という少年野球場が2面あり、軟式野球大会などがよく開かれている。
 徳田が坂を見てため息をついた。
「もう慣れたとはいえ、この坂を自転車で登るのはきつくてきつくて。普段はオートバイに乗ってるもので、警察官が体力不足じゃ、困っちゃいますよね」
 とき子は困ったように小さくほほ笑んだ。
「では、行きましょう」
 徳田がとき子に手を差し出した。とき子が一瞬のふいを突かれたかのように、びくっと体を硬直させた。とき子は、差し出されている徳田の手を見ながら、立ちつくしている。
「どうしたんです? あ、手を引くにはまだ早すぎましたかね。じゃあ、途中で声をかけて下さいね」
 代々木大山公園へ続く坂から、セレブな感じの中年カップルが降りてくるのが見えた。すでに急な箇所は過ぎており、長く緩やかな坂道を無言で歩いてくる。30代半ばらしき妻の方は、つばの大きな黒い帽子を被っていて、顔はよく見えない。
 とき子は、じっとその二人を見ていたが、突然手にしていた日傘を広げると、
「ちょっと私、別の用事を思い出しましたので、ここで失礼いたします」
徳田の手から花束を取り上げて、来た道を急いで戻り始めた。
「あ、片瀬さん」
 とき子は振り返ることなく足早に歩いていく。
 徳田はいぶかしんでとき子の背中を見つめていたが、中年カップルが近づいてくると、そちらへ目を向けた。
 美しい女だった。だが、暗い目をしている。隣を歩く夫は、そんな妻が心配で仕方がないらしく、時々足元がおぼつかなくなる妻を支えるように腰に手を回している。
<どこかで見た顔だな……>
徳田は、記憶をたどりながら、とき子が消えた裏道とカップルの背中を交互に見た。
<絶対に見た事あるんだけどなぁ。……誰だったかなぁ>
 眉間にしわを寄せて考え込んでいた徳田のお腹が、ふいに音を立てた。
とりあえず先に空腹を満たそうと、徳田は自宅のある高級住宅街の大山町へ向かって歩き始めた。

(Chapter 9へ つづく)

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実は、「五差路」かもしれません。

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ここからでは、まだ公園は見えませんね。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第18回 Chapter 9

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Chapter 9

 昼過ぎに出社してきた塩沢が、嫌がる油井に一本の電話を入れさせた。平田ツヨシの家に侵入するための助っ人を要請したのだ。油井にとって、その助っ人代も、その行動自体も意味不明で全く無駄にしか思えなかった。
「透明人間らしく、1人でこっそり入ればいいだろ」
 油井は抗議したものの、塩沢は全く聞き入れなかった。今後「盗撮」の仕事は引き受けないとまで言い出した。あらためて金が無い状態がどれだけ嫌なものかを思い知らされながら、油井は渋々承知した。
 その日の午後3時頃、小学校からの帰宅時間帯を狙って、変装をした油井が平田ツヨシの家を訪ねた。眼鏡につけ髭、ポマードを髪になでつけるという、胡散臭さ満載の変装だ。横には見知らぬ男を従えている。30代前半のすっきりとした顔立ち男で、見るからに頭の良さそうな風貌と雰囲気を醸し出しているが、同時に社交性はなさそうに見える。
 元代々木町にある平田家は、間口は狭いが、奥行きのある2階建て3LDKの一軒家だ。車庫には多少年季の入った青色のBMW3シリーズが留められている。2階の正面の部屋は、夫婦の寝室らしく、つよしの部屋はその奥にあるらしい。
 油井が意外に簡素な門扉の横のチャイムを鳴らした。塩沢の調べによれば、今日は塾が休みの日なので、ツヨシは家にいるはずとの事だった。
「はい……」
 ツヨシの母愛美が、不審さを隠さない声で応答した。
 合格実績が半端ではない家庭教師を連れてきているので、少し話を聞いてもらいたい。外へ出て説明だけでも聞いてもらえないか、との趣旨の話を、油井がモニターフォン越しに身振り手振りを交えて大げさに説明した。
 しばらくして、愛美が玄関のドアを半開きにして顔を覗かせた。
「なんですか? 家庭教師の押し売りなんて、そんな胡散臭い話、信用できるはずないでしょう。お帰り下さい」
「いや、まずこのパンフレットを見てもらえませんか? 嘘ではない事を証明いたしますので。それに、本日は無料でお子様の勉強を見させていただきます。得るものはあっても、損する事は何もありませんです、はい」
「無料、ですって? ホントかしら」
「お母様は、すでに多くの有名塾の先生方をご存じだと思いますので、お子さんの勉強にご同席ください。私が力不足と思われたら、もちろん遠慮なくおっしゃって下さい。すぐにお暇します。本日に限り、お子さんが根を上げるまで、何時間でも無料でお教えします。今後は、こちらからご連絡は一切致しません。―――お母様、いかがでしょうか」
 油井の連れが淡々と説明した。実は、この男は油井が以前勤めていた探偵事務所の仲間で、今回は油井が雇い主となり、「家庭教師役」を演じてもらっていた。東京大学の法学部を出ていながら探偵をしているという変わり者だ。名前を朝比奈義宣といい、家系図を辿れば、昔はお城の御殿様だったとか、戦国武将だった人物にまで遡る立派な家の出らしいが、その朝比奈家の末裔が、なぜか大手探偵社で一調査員として働いている。
 中学校受験のテスト内容は、一般人の想像を超える難しさだが、この男なら対応できるだろうと、油井が朝比奈に声を掛けた。運よく非番だった朝比奈は、「イイっすよ」と詳しい事情を聞くこともなく、引き受けてくれた。半年しか探偵社に在籍しなかったその期間に、油井が唯一作った「借り」を覚えていてくれたのかな、と思いもしたが、後日しっかりと請求はされることになっている。
「そうね。あの子、今学校を休んでることだし、ちょっとお願いしようかしら」
「素晴らしい! では奥さん、お勉強を見るのは、息子さんのお部屋でよろしいですかな?」
 油井が万歳でもしそうな勢いで喜びの声を上げた。
「ちょっと、アナタも一緒に入るんですか? この先生だけにしていただけません?」
「あー、えっと、一応息子さんにご挨拶だけしたら、お暇しますので、はい……」
 愛美は冷ややかな視線を油井に投げかけたが、穏やかに微笑んでいる朝比奈を見て態度を変えた。油井が今まで見たことのない朝比奈の「営業スマイル」だ。
「わかりました。ではどうぞ」
 愛美が油井たちに背を向けると、油井は朝比奈に目配せをして、静かに大きく息を吐き出した。朝比奈は、さも当然という態で、愛美に続いて玄関へ入って行く。
ポンッと油井の肩を叩く音がした。
「サンキュウ」
 塩沢が油井の耳元で囁いた。
 油井は、塩沢がいる辺りを見て睨んだが、玄関のドアを手で支えながら、
「さっさと入れよ」
と小声で言った。
 それを聞いた朝比奈が、怪訝そうに油井を振り返った。
「あ、いや、なんでもない、なんでもない。ちょっとケータイに連絡が入ったんで、先に入っててくれ。すぐ行く」
 油井が苦笑いをしながら朝比奈に言った。朝比奈は片手を上げて「了解」とだけ答え、愛美の後について行く。
 塩沢が律儀に靴を脱いでいるらしい音が聞こえてきた。
 今度は音を出して、油井は大きなため息をついた。

(Chapter 10-1へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第19回 Chapter 10-1

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Chapter 10-1

 油井と塩沢が外食をする時に、2人で会話をする事はもちろん、ない。「透明人間」である塩沢の声を他人に聞かれるのは問題がある上に、油井が独り言を言っているように装っても、気味悪がられるだけなので、結果として2人はただ黙々と食事をとる。ただ「まんぷく」の店員は、いつ来ても2人前以上の食事を平らげる油井を、大食漢だとは思っているふしがある。
 油井の宣言通り、今晩は近所の焼肉店「まんぷく」へ来ていた。平田家での個人授業が終了したのが夜の10時で、形式的に朝比奈を食事に誘ってはみたが、平田家で簡単な食事を出されたらしく、朝比奈は請求金額だけ確認して帰って行った。
「なんで、俺があの子供の家庭教師代を払わなきゃならないんだよ。それによぉ、あの母親もタダだと思って朝比奈を5時間も拘束しやがって、これで報酬が手に入らなかったらどうすんだ? 本当に大丈夫なんだろうな、ええ?」
 今夜のピークはもう過ぎたのか、客もまばらな店内で、油井がかまわずに「独り言」を言った。久しぶりの焼肉だが、その旨みも半減していた。
 塩沢は終始無言だ。ただ、網の上で焼かれたカルビが、ひょいひょいと空中に消えていく。気が向いた時は、目を凝らして塩沢の姿を見つけてやろうと試みるのだが、ただ手品のように食べ物がフッと消えていくだけで、輪郭すら見えたためしはない。もちろん今の油井に、そんな事をする気は全くない。
  店員がお茶のお代わりを持ってくるのを見つけて、油井が箸で塩沢に合図をすると、塩沢は動きを止めた。店員が下がると、
「俺は先に上がる。後、よろしくな」
 塩沢が小声で言った。
「ちょっと、待てよ」
驚いた油井が、急いで携帯電話に出るふりをして、一旦店の外に出た。
 店の戸を閉めた油井に、「やり掛けの仕事があるんで、事務所に戻る」という塩沢の声が前方から聞こえてきた。
「仕事熱心なのはいいが、注意散漫になって人に気づかれたりするなよ。ウチは、俺の頭脳とお前の特殊能力で成り立ってるんだからな」
 油井が小声で答えた。だが、返事はない。すぐに10メートルほど離れた場所にあるビルの扉がひとりでに開いて、また閉まるのが見えた。自分の発言が単なる「独り言」になっていた事が分かった。
「ったく。どうしちまったんだ、あいつ……」
 油井が店に戻ろうと振り返ると、
「座敷わらしの友人でもいるんですか?」
 徳田がニコニコしながら本を片手に立っている。油井は「ヒイッ」と甲高い悲鳴を上げて飛び退った。
「び、ビックリさせんなよな! 胃から肉が飛び出してくるかと思ったぞ」
「いやー、失礼しました。油井さん、なんか妙な独り言を言っていましたけど、大丈夫ですか? 仕事うまくいってないんですか?」
「え? ああ、うん。ちょっと、……そう、仕事がね。色々と大変で……」
 油井は心の中で塩沢を罵倒した。
「今日話していた『まんぷく』ですか? 遅い夕食ですね」
「あ、そうそう! 今ちょうど『まんぷく』で食事中なんだよ。一緒にどう? 奢りじゃないけど」
「塩沢さん、中にいるんですか?」
「いや、あいつは急用があってね。残念ながら今日は俺一人」
「そうですか……。ちょっとお見せしたい物があって伺ったんですけど、―――じゃあ、ご一緒します。食事は済んでいるんですけど、少しなら入るかな」
 油井が思わずガッツポーズをした。それを見た徳田が、ほほ笑んで、
「俺が奢ります。財布探しがんばって下さいよ」
「オッシャー!」
 徳田が手にしていた本を、小躍りしている油井に見せた。それは、やせ細った裸婦が一輪の花を抱きしめている絵が表紙になっている画集だった。タイトルには「片瀬とき子画集」と書かれている。
「財布を無くしたお婆さん、片瀬とき子さんって、実は有名な画家さんだったんですよ。で、実は……」
「いいから、いいから。とりあえず中に入ろう。中で話聞くからさ」
 油井が勢いよく店の戸を開けると、
「上カルビ、いや、今店にある一番いい肉を三人前追加ねー!」
 油井が徳田の背中を押して店内へ戻って行った。

(Chapter 10-2へ つづく)

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「まんぷく」さんのカード。ランチでよくお世話になっています。トップの写真もランチの物です。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第20回 Chapter 10-2

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Chapter 10-2

 「まんぷく」での食事を終えた油井が、4階への足取りも軽やかに、上機嫌で事務所に戻ってきた。ドアノブに掛けられた「Sorry, We’re Closed.」と英語で書かれたプレートをひっくり返して、「Please Come In!」の表記が見えるようにしてから中へ入った。
 誰もいないように見える室内で、32インチの液晶テレビの音だけが聞こえてくる。画面の中では、仮面ライダーが敵と格闘していた。
 油井が鏡を覗き込むと、塩沢が真剣な表情でテレビに見入っている。
「いつの間にこんなの録画してたんだ? つーか、これがお前の言ってた『仕事』かよ。こんなのが財布探しの役に立つのか?」
「ああ、たぶんな」
 塩沢が画面から目を離さずに答えた。
 ホントかよ、と口には出さずに、油井は徳田に持たされた画集をソファに放り投げると、コーヒーを入れる準備を始めた。塩沢は一瞬だけその画集を見たが、すぐにテレビに視線を戻した。
「お前が店を出て行った後、徳田が突然来てさ。あいつお前に会いたがってたから、間一髪だったぞ。同席されたら、いくらお前が『透明人間』でも、バレないって保証はないからな」
「……」
「後、そこの画集、あいつが持って来たんだけどさ。知ってたか? あの財布を無くした婆さん、実は昔は名の知れた絵描きだったらしいぜ。でさ、おまけに……」
「もうすぐ終わる。後にしてくれ」
 話を遮られた油井は、不満そうな顔でコーヒーメーカーをセットすると、大きな音を立てて一人掛けのソファに腰を下ろした。塩沢は集中をしたまま、まるで子供がするように、仮面ライダーの動きに合わせて体を動かしている。
 テレビ画面と鏡の中の塩沢を、呆れながら見ていた油井は、悲しげな表情になって、
「塩沢ぁ、その体動かすやつ、止めてくんない? なんか、ビミョーな空気を醸し出してるぞ、お前……」
 次回予告が流れ出すと、やっと塩沢が振り向いた。
「今の仮面ライダーは、俺たちの子供時代と違って、かなり複雑な設定だな。『神なき世界に、仮面ライダーが降臨する』ってキャッチコピーで、仮面ライダーが『神様』なんだと」
 油井は出来あがったコーヒーをマグカップに入れてからデスクチェアに座ると、コンピューターの電源を入れた。
「まったく、興味なーし。それに、俺、無宗教だし」
コーヒーを飲みながら、コンピューター画面に出された小山内響子のツイッターアカウントをチェックする。
「ま、しいていえば、俺の神様は、『お客様』、だけどな。ちと古すぎるか」
 塩沢は、鏡の中で肩をすくめた。
「あの子の部屋、そんなに数は多くはなかったが、仮面ライダーのグッズが飾られていて、それらのパッケージまできれいに取ってあったよ」
 油井はコーヒーを飲みながら、「ふーん」と答えた。
「この仮面ライダーだけが、今のあの子が信じられる、たった1つの物なんだろうな……」
「なに、感傷的になってんだよ。みんなそれぞれ覚えのある話だろうが。俺はな、ガキの頃は体型や名前のことで『アブラムシ』とか呼ばれてさ。高校時代は『潤滑油』だとか『グリース』だとか、散々からかわれたぞ。『潤滑油』が転じて『ピストン潤』って、意味分かんねぇだろ? 街中でそんな風に呼ばれてみろ。恥ずかしいったらないぜ」
 塩沢が神妙な顔つきで油井を見た。
「親を恨んだりって、あったのか?」
「まぁな……。でも、自分に与えられた条件の中で、最高の自分になると決めた日に、そんな親に対する恨みなんて、どうでもよくなっちまった。それに、恥ずかしながら、まだ金銭面で親に助けられることもあるし、文句を言える立場じゃないだろ?」
 塩沢が小さくほほ笑みながら、鏡の中から油井を見ていた。それに気付いた油井が、少し照れたように視線を外して、音を立てながらコーヒーを啜った。
 アメリカからの帰国後、人目を避けて生活をしていた塩沢は、両親とは電話で一度話したきりで、自分の所在地も告げず、会いに行く事もしていない。傷心を抱えて帰国した自分のことを心配している事は重々承知していながらも、やはり親に合わせる顔がなかった。それと同時に、親の助言で帰国した事を、逆恨みしていた時期もあった。両親と最後に話した時に、「自殺なんかはしないよ。そんな事で許されはしないからね」とは伝えてあった。生きている証拠として、毎月微々たる金額だが父親の口座に入金している。
「ところで、徳田が持ってきた情報だけどさ、何だと思う? ヒントはそこの画集」
 油井がニヤニヤしながら鏡を覗き込んだ。

(Chapter 10-3へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第21回 Chapter 10-3

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Chapter10-3

 塩沢が改めてとき子の画集を見た。「孤独」や「痛み」が前面に出された悲しい人物画だった。
「徳田君は、真面目な男なんだな。今日見かけた女性が気になって、調べたわけか」
「は? なんで……、あっ、お前今朝2人をつけてたんだな。それで今日来るのが遅かったのかよ。なんだよ、楽しげに質問した俺がバカみたいじゃねーか」
「彼は、片瀬さんが若い時に捨てた娘が、今上原に住んでいる事もつきとめたんだろ」
 油井は落胆を体で表現するかのように、イスの背もたれにぐったりと寄りかかった。
「はいはい、そーですよ。一応、上原在住の有名人の1人。『本田たか子』、若き美人ピアニスト。そういえばそんな人いたね、って程度で、俺は全然チェックしてなかったけどな。―――で、やっぱり、お前もすでに知ってたワケね……」
「ネットで2人の繋がりに言及している物は皆無だったが、あの2人に面識がある事は明白だった。片瀬さんの過去を調べる内に、片瀬さんが捨てたとされる子供と、本田さんの年齢が合う事が分かった。で、『情報屋』に調べてもらって、確認を取った。有名人は一般人と違って、すでにデータベース化されているので、簡単に分かったよ。徳田君は、どうして分かったのかな」
「ちょい、待った。……今、『情報屋』って言ったね、君。て事はだ。料金が発生するわけで、また、余計な経費を使ったって事だよね。誰の許可を得て、そんな事をしているのか教えてくれるかな? んん?」
 塩沢は無表情になって、鏡の中から油井を見つめ返した。
「事件解決のため、ひいてはこの事務所のためだが」
「いやいや、そんな顔をしてもダメだ、ダメだ。俺は騙されないぞ。そもそも、この案件に事件性なんてモンは無い。ただの、『落し物』を見つけるのが仕事だからな。その裏にどんな話があろうとだ。財布を見つければ、そこでおしまい。フィニッシュなんだよ!」
 油井は鏡から目をそむけると、腕を組んでから宙を睨みつけた。
「それに、今日朝比奈を呼んだ理由もまだ聞いてないからな。あんな調査、本当に必要だったのかよ? お前も徳田も、『善人』ってのは苦労が絶えないよな。婆さんが財布を落とした事で落ち込む必要はないって、あの子に教えてやればいいだけの話だろう。変な親切心を出して、本当は単なるお節介。あの子にとっても、余計なお世話なんじゃないのか。どうなんだよ」
 横目で鏡を見ると、塩沢が神妙な顔をして考え込んでいる。油井はばつが悪そうに慌てて言葉を付け足した。
「お前が真面目に仕事をしてるのはよーく分かってるし、嫌な顔をせずに、いや、嫌がってはいるが、どんな仕事でも受けてくれてるし、そんなお前が俺には必要なわけでさ……」
「……明日だ」
 塩沢がテレビを見つめながらボソッと言った。
「ん? 明日、ってなんだよ?」
「明日まで、この件に関わらせてくれ。それで終わりだ。うまくいけば、明後日には財布は見つかる」
「ホントかぁ? 予定外の事が多すぎんだよ、ホント。明日になって、『もうちょっと待ってくれ』とか言い出さないだろうな」
「約束する。―――今回は、納得のいく仕事をしたいんだ。頼む」
 鏡の中に、真剣な顔をした塩沢の横顔が映っていた。
「まぁ、お前がそこまで言うなら……。で、その後は、響子ちゃんの仕事に戻ってくれるんだよな」
「一度受けた仕事だ。最後までやる。もう二度と、いい加減な口約束はしない……。帰国して以来、初めてなんだ。こんな気持ちになれたのは」
「いいよ、分かった。俺もちょっと言い過ぎた。今回の仕事をお前に任せたのは、俺だからな。とにかく最後までやり切ってくれ。でも、出来ればさっさとな。―――で、ここで残念なお知らせがある。今回はすでに色々と経費がかさんでるんで、『まんぷく』でのお祝いはナシだ。あ、今日の分は、徳田に払わせたからチャラだぞ。かなり豪勢にオーダーしたが、まだ家庭教師代の分はカバーしきれてないからな」
「すまない」
「いいって、いいって。俺たちはパートナーだからな」
 塩沢の殊勝な態度や、先程の特選カルビの味が口に蘇ってきたことで、油井はここ数日の憂鬱が吹き飛ぶような陽気さが戻ってきた。<クヨクヨしても仕方がない>と思い直す元気も出てきて、代々木上原に出没する芸能人のリストや、ブログやツイッターのチェックに取り掛かった。
 塩沢がテレビを消すと、
「じゃあ、俺は帰る。明日の朝、もし俺宛てに荷物が届いたら預かっておいてくれ」
「テレビは点けっぱなしにしといてくれ。で、何を買ったんだよ? 珍しいじゃないか。ショップチャンネルで、何か面白そうな物でも見つけたか?」
「いや、お前のPCを借りた」
 油井の表情が固まった。
「おい、ちょっ、俺のPCを勝手にさわるなよなー。なんでパスワード知ってんだよ」
「別に。見たことがあるからな。調べ物をする時には、いつも借りているが」
「……」
 ソファから立ち上がった塩沢が鏡の中からいなくなると、油井が不安げに問いただした。
「あのなぁー。こっちにもやり繰りってモンがあるんだからさぁ。カード残高少ないってのに……。で、品物は何なんだ? 幾らしたんだよ」
 ドアの辺りから、いつもの淡々とした塩沢の声がした。
「カードは使えたみたいだ。品は、自転車のように高価な物じゃないから安心してくれ。今回の仕事での、最後の『必要経費』だな」
「……お前、いつからそんな嫌味を言うようになったわけ? 俺に不満でもあるのか? いや、自転車の件は別にしてだよ。話し合おうよ、俺たちパートナーだろう? それに、今ちょっとだけ絆を深め合ったばかりじゃんか」
 油井が塩沢の姿を探しながら、主を探すブルドッグの様な情けない表情を作った。
「金額は、6万円くらいだったかな。悪いが、こればかりは譲れないんだ。使い終わったら、ネットオークションで売ってくれ。すぐに買い手は見つかると思う」
「だから何を買ったんだよ!」
「履歴を見ればすぐ分かる。明日使うものだから、絶対にキャンセルはしないでくれよ。じゃあ、おやすみ」
 ドアがひとりでに開いて、また閉じた。
 塩沢が部屋から出ていくと、油井はすぐに購入履歴と、注文確定のメールを確認した。
 購入内容を見た油井が、ぽかんとした間の抜けた表情を見せた。その目に苛立ちの色が現れると、間髪を入れずに掌でデスクを叩いた。
「何考えてんだアイツは!」
 マグカップから飛び出したコーヒーが、コンピューターのキーボードを濡らした。
油井は、イライラしながらティシュペーパーでコーヒーを拭き取ると、見えるはずのない塩沢の姿を求めて、窓から人気のない代々木上原の商店街を睨みつけた。

(Chapter11-1へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第22回 Chapter 11-1

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Chapter11-1

 平日の代々木上原商店街は、商店街主催のイベントがある時以外で混雑する事はない。若者の街である近隣の渋谷や下北沢とは違い、落ち着いた雰囲気があり、人気店で多少の行列を見る事はあっても、慌ただしい空気とは無縁だ。
 目的地に向かって脇目も振らずに足早に歩き去る人、他人に干渉しない、したくないといった様子の人々ももちろんいるが、その反対に、周囲を眺めながらもゆっくりと歩を進める老人もいる。時間を持て余している有閑マダム、仏頂面で高級車を運転する老若男女、普段着を着ていても町に溶け込めない芸能人、逆に溶け込みすぎて一般人化している有名人など。それらすべてが町の持つ空気の要素となり、代々木上原時間を作り出している。
 しかし、今日はそのどれとも違う光景を作り出す人物がいた。
 代々木上原の商店街を、「仮面ライダー」のコスプレ姿の男が歩いている。奇妙な黒マントに変身ベルトをつけた仮面の男を、誰もが足を止めて見つめている。だが、そのコスプレ男を見る人々は、奇異な目を向けてはいるが、バカにした笑いは見せていない。本物でない事は一目瞭然なのだが、その立ち振る舞いや堂々とした歩き方のせいで、「もしかしたら、本物か実際のテレビ関係者なのかも」と思わせる雰囲気を漂わせている。
 大人サイズのレプリカマスクに衣裳、変身ベルト、グローブにブーツなど、遊園地のヒーローショーに出ていても違和感がない品揃えだ。今朝事務所に届いたこの「仮面ライダー・コスプレ・セット」こそ、塩沢が無断でネット購入をし、油井を激怒させた品々だった。コスプレ専門サイトで見つけた中国製の衣裳だ。本物のコスチュームの様な耐久性はないが、遠目に見る分には、その違いはほとんど分からない。
 出勤してきた塩沢は、すぐに品を確認してからコスチュームに着替えた。一通り文句を言う油井を無視して、「仮面ライダー」としての動きの確認をし始めた。歩き方や仕草は、何度もテレビを見ながら練習して、すでに会得していた。主人公を演じる俳優の口調を真似る事も出来るようになっていた。声帯模写は昔からの特技で、英語での模写はさらにやり易く、アメリカ時代はこれでよく友人を笑わせていたものだ。
 呆れかえった油井は、その様子をソファに寝そべりながら鏡越しに見たり、見なかったりしていたが、突然素っ頓狂な声を上げて、塩沢の名を呼んだ。
「お、おい、塩沢っ……! お前、見えてる。ちゃんと、見えてるぞっ!」
 練習中も常に油井の視線を気にしていた塩沢が、ゆっくりと振り返り、マスク越しに油井を見た。
 油井は鏡にではなく、直に塩沢を見ながら指をさしている。塩沢が部屋の中を移動しても、その指先はどこまでもその姿を追ってきた。
<……やはり、俺の姿が見えるのか……>
 見えない事よりも、見える事の方が異常だとでも言いたげな困惑した表情で、油井はいつまでも塩沢を指差している。
 塩沢はある仮説を立てていた。今では、その仮説を証明するために、この案件を受けていると言っても過言ではない。

(Chapter11-2へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第23回 Chapter 11-2

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Chapter 11-2
 塩沢の仮説とは、他人が自分を認識した瞬間に「見えなくなる」のなら、自分とさえ分からなければ、また見えるようになるのではないか、というものだった。だが今までは、それを実証する機会もなければ、する気もおきなかった。いや、してはいけない、という気持ちの方が強かった。しかし、その機会は突然にやってきて、実証されたのだった。
 商店街を歩きながら、塩沢は奇妙な気分を味わっていた。自分の読みが当たった事はうれしいが、こうして他人になり切る事でしか、周囲が自分を認識できないという事実を、悲しみもしなければ喜びもしなかった。ただ、人に見られるという感覚が、こんなにも恥ずかしいものだとは思ってもみなかった。どれだけの長い期間自分が姿を「消している」のか、またその事に慣れてしまっているのかを思い知ることにもなった。
 今感じている「人に見られる」という恥ずかしさよりも、自分の仮説の確認のために今回の事件を利用していることと、それは結局、心の中ではまた人に見られるようになりたいと思っているという事を発見した恥ずかしさの方が何倍も大きく、塩沢の体は火照って汗だくになっていた。衣裳を脱いでまた消えてしまいたい衝動に駆られたが、周囲の混乱を考えて押しとどめた。
「人がこの世から消えたいと願う時は、大抵は自殺を選ぶモンだが、お前はホント変わってるよ」
 探偵事務所を開いて、すぐに油井に言われた言葉だ。
 自殺をする事は考えなかった。その選択肢を、塩沢は与えられていないからだ。
「私も生きるから、あなたも生きなさい。自殺なんてしたら、絶対に許さないから」
 アメリカを去る前日、電話口で彼女に言われた最後の言葉が、塩沢をこうして生かしている。
人が家から一歩も外へ出ない日の格好は、起床後すぐに身だしなみを整える習慣がない限り、かなりルーズだ。塩沢は人に見られることがないとは知りつつも、身だしなみは整えるよう心がけていた。それが、塩沢にとっての「生きている証し」でもあったからだ。
 コスプレ男の動きが徐々に硬くなり始めると、鼻で笑いながら立ち去る人が出始めた。
 去来する様々な思いを振り払おうと、塩沢は自分を叱咤した。
<集中しろ。お前は「仮面ライダー」だ。自信を持って、任務を遂行しろ>
 事務所の窓を振り返ると、油井が小さくほほ笑みながら、塩沢を見ていた。油井は、目立たない様に小さく手を上げた。
「やるからには成功させろよ。失敗した場合は、経費と認めないからな」
 塩沢を送り出す時の油井の口調は、その言葉ほどにはきつくなかったが、塩沢の急な変化に、喜び半分不安半分といった感が、その表情に滲んでいた。
 塩沢が、再び正面を向いた。
 小さな男の子が、びっくりしながら塩沢の一挙手一投足を見守っている。戦闘ポーズを取って男の子を喜ばせつつ、仮面ライダーになり切れているかをその子の反応を見て確認しようと思ったが、目立ちすぎると後で面倒が起こると思い直し、塩沢は急いで裏道へと足を進めた。

*  *  *

(Chapter 11-3へ つづく)

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こんな風に実際に購入出来ちゃいます。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第24回 Chapter 11-3

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Chapter 11-3

 午後2時ごろに平田家へ着き、10分以内に「仕事」を終えてまた立ち去る、というのが塩沢の立てたプランだった。周囲の状況によっては、フレキシブルに対応するつもりではいたが、今の自分の中にある勢いを殺ぐような事はされたくはなかった。
 だがその心配は杞憂に終わった。ツヨシの家の周辺は全く人気がなく、塩沢は心おきなく「演技」に集中できると、安堵の息を漏らした。
 塩沢は、死角になるよう隣の家の脇道に入ると、携帯電話を取り出して電話をかけた。
 平田家のリビングルームの電話が鳴ると、ダイニングチェアに座って女性週刊誌を読んでいた愛美がため息をついてから席を立った。
「はい」
「平田さんのお宅ですか?」
「……そうですが、どちら様ですか」
「私は仮面ライダー。ツヨシ君に、激励のメッセージがあります。代わっていただけますか?」
「は?」
 愛美は、眉をしかめて電話を睨みつけた。
「誰ですか? 学校のお友達? いや、新手の詐欺じゃないでしょうね」
「いえ、私はテレビで仮面ライダー役をやらせて頂いている俳優なんですが、ツヨシ君にお話があります。代わっていただけませんか」
「いい大人が、いたずら電話なんかして。もう切りますよ」
「あっ、ちょっとお待ちください。―――失礼しました。実は、息子さんが『仮面ライダー生トーク賞』に応募されて、当選なさったんですよ。それで、こうしてお電話をさせていただいているという訳なんです」
「ヤダ。ホントに? あの子、いつの間にそんな応募なんてしたのかしら。禁止をすると、逆にこんな事があったりして、ホント困るわ。私が懸賞に応募しても当たったためしないのに……」
 愛美がブツブツといつまでも独り言を続けている。
「えー、スイマセン。ところで、ツヨシ君は今御在宅ですか?」
「……います、けど。―――息子は今、謹慎、いや、えっと、勉強中ですので、また後日にしていただけません?」
「―――そうですか。それは、実に残念だ。このキャンペーンも今日のツヨシ君が最後でして、時間や日程の変更はきかないんですよ……。今ツヨシ君は勉強をなさっているんですね? では、こういうのはいかがでしょう。私『仮面ライダー』から、もっと勉学に励むよう、直にツヨシ君にメッセージを伝えさせていただきます。どうでしょうか?」
 不愉快そうだった愛美の表情が、一変して明るくなった。
「あら、そう? それは、ちょっといいアイデアかもしれないわね。―――では、少々お待ち下さい。今呼んできますわ」
 コーナーテーブルの上に受話器が置かれると、「ふーっ」という塩沢のため息が小さく聞こえてきた。
 しばらくして、
「―――はい、お電話かわりました……」
 と、半信半疑でツヨシが電話に出た。
「ツヨシ君、俺の声は知っているね?」
「え……? でも、ボク応募なんて……」
「静かに。これから俺は、君を俺の相棒するためのテストをする。応募の件は、君を電話口に呼ぶ口実だが、君のお母さんにはナイショにしておいてくれ」
 電話口から聞こえてきた声は、ツヨシがヒーローと崇めるテレビの主人公の声そのものだ。ツヨシは目を丸くしながら電話機を見つめた。
「これから俺の言う事をよーく聞くんだ。今君が話している電話がコードレスなら、それを持って今すぐに君の部屋へ行くこと。もし携帯電話を持っているなら、その番号を教えてくれ。これも2人だけの秘密だが、出来るかい?」
「えっと……」
 ツヨシが振り向いて、背後に立って自分を観察している母親を見た。愛美はどこか馬鹿にしたような表情で息子のやりとりを見ている。
「……ホントに、本物なの?」
「もちろんだ。俺の声を忘れたのかい? もう一度だけ聞く。電話はどうなっている?」
「コードレスで、ケータイは持ってません」
「では、君の部屋へ行くんだ。さぁ、ミッションは始まっているぞ。急いで!」
「はい!」
 ツヨシの元気の良い返事を聞いた愛美が、嬉しそうにほほ笑んだ。だが、ツヨシが突然2階の自室へ向かって駆けだすと、目を丸くして呼び止めた。
「ツヨシ、どこ行くの? ちょっと、待ちなさいよ!」
「自分の部屋ー! メモとペンがいるから!」
 ツヨシの口からとっさにウソが出た。だが気に留めることなく、ツヨシは目を輝かせて階段を駆け上って行く。
 愛美は急いで廊下へ首だけを出すと、
「もし仮面ライダーが勉強を見てくれるって言ったら、素直に聞きなさいよ!」
 と大声を出した。
 言った先から「んなわけないか」と、愛美は照れ笑いをして、雑誌の続きを読みに戻った。

(Chapter 11-4へ つづく)

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作中の子供部屋のイメージとはちょっと違いますが、参考までに。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第25回 Chapter 11-4

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Chapter 11-4

 ツヨシは部屋に飛び込んでくると、振り返ってドアノブを見た。鍵が付いてない事はもちろん知っていたが、確かめずにはいられなかった。はやる胸の鼓動を抑えながら、デスクチェアに腰かけた。
 5畳ほどの広さの部屋だが、最初に目につくのは、壁一面の本棚にずらっと並べられた参考書群だ。まだ真新しく手をつけていない物も多くあるが、その威圧感はベッドサイドに飾られたフィギュアや、壁に貼られたポスター程度ではビクともしない。壁に1枚だけ貼られているポスターは、一度強引に剥がされた事があるのか、セロテープで補修された個所が何個もある。
 仮面ライダーのポスターや、フィギュアを見つめるツヨシの目は、夢見心地夢でうっとりとしている。参考書や母親の威圧感を忘れて、ツヨシはポスターを見つめながら受話器に話しかけた。
「部屋に入りました!」
「よくやった。まずは第一関門突破だ。次のミッションはかなりの難関だが、準備は出来ているか?」
「はい!」
「よし。では、まずは質問だ。―――君の心に悪は宿っているか?」
「え……?」
「俺の相棒は、正義の心を持っていなくてはならない。当たり前だよな」
「う、うん……、そうだけど……」
「じゃあ、答えてくれ。君の心に、悪い心が忍び込んだりはしていないか?」
「そんな……。ぼ、僕は何も悪い事なんかして、ないし……」
「そうだ。もちろん君は間違った事なんかしないし、これからもそうだ。ただ、何か気になる事があるんじゃないか? 俺にはそんな気がしてならないんだ」
 ツヨシは急いでポスターから目を離すと、勉強机をじっと見つめた。
「人は誰でも間違いを犯す。だが、それを正す心が、人をヒーローにする」
 引き出しをそっと開け、左端に積み重ねられている写真の束を見つめた。修学旅行の写真らしく、神社を背景にして、クラスメートたちとふざけ合っているツヨシの写真があった。ツヨシはその背後に小さく写っている女の子を見て、またすぐに引き出しを閉じた。
「俺は、神なき世界の、そして彷徨える魂の救世主だ。俺が救ってきた様々な魂(ソウル)の事は知っているよな。俺には見えるんだ。過去も未来も、これから君が進む道も。―――君は正しい道を選び、そして強い意志を持った正義の使者になる。そうだろ、相棒」
 受話器を握りながら、ツヨシの目が泳いでいた。受話器の向こうからは、じっと自分の返答を待っている気配が伝わってくる。ツヨシの顔からさっきまでの陶酔感は消えていた。
 喉につかえていた言葉をいったん飲み込むと、ツヨシは勢いに任せて、口にしたくなかった言葉を叫んだ。
「そんな、デタラメを言わないでよ! みんな、みんなウソつきなんだから! ―――仮面ライダーなんて、仮面ライダーなんてただのテレビで、ホントは、いるハズないんだ……。 この電話もウソで、みんなでボクをからかって、いじめたいだけなんだ……」
「いや、俺は本当にいる。今日は電話だけじゃない。君に会いに来ているんだ。嘘だと思うなら窓から外を見てごらん」
 ツヨシは勢いよくイスから立ちあがると、窓の外を急いで覗き込んだ。
 10メートルほど離れた路上に、携帯電話を持った仮面ライダーが立っていた。
 仮面ライダーは、真っ直ぐにツヨシを見つめている。本物との細かい違いなど気にならないほどツヨシは興奮し、また動揺もしていた。
「知っているかい? 俺はいつも君の心の中にいるだろう? 実は君の中の正義の心が、『俺』という仮面をつけているだけなんだ。君の中には、もう『ツヨシ』という名の仮面ライダーがいるんだよ」
「……」
「自分を信じるんだ、ツヨシ。君の中のヒーローを呼び起こすんだ。『仮面ライダー』は、君の心に潜む怪人たちをやっつけてくれる」
 急に膝の力が抜けて、ツヨシは床に跪いてしまった。だが、窓の外の光景を見失うまいと、気力を振り絞ってもう一度立ちあがった。窓枠にしがみつき、外に立つ仮面ライダーを食い入るように見つめた。
「すべてを元通りにしてごらん。そうすれば、君は生まれ変われる」
「……ホントに? 僕が? 僕は、ヒーローになんて、なれないよ……。だって……」
 ツヨシの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「いや、なれる。大丈夫だ。俺にはもう分かっているんだよ」
 窓の外で仮面ライダーがツヨシを指差していた。そして、テレビの中で見せる決めのポーズと同様に、その指を空へ向かって真っ直ぐに上げた。
 ツヨシが小さくほほ笑んだ。ツヨシの大好きなそのポーズこそ、イヤな事がある度にツヨシが心の中で思い描いていた『おまじない』でもあった。
 だがそれも一瞬の事で、ツヨシはすぐにうな垂れると、重くなった唇を一生懸命に開きながら言葉を絞りだした。
「……ごめん、なさい。―――僕は、怪人になろうとしていたんだね……。ヒーローになんか、もうなれないよね」
「大丈夫さ。たった今、君は、君自身の手でその怪人を倒したんだよ。今の君は、俺の相棒であり、ヒーローでもあるんだ」
「……うん」
「―――明日の朝7時までに、元通りにしておいてほしい。出来るかい?」
 外の仮面ライダーに向かって、ツヨシがひとつうなずいた。
「さすがだ。俺が見込んだだけの事はある。また会おう、ツヨシ」
 仮面ライダーがツヨシに向かって手を振った。その前を宅配のトラックが通り過ぎると、仮面ライダーはもういなくなっていた。
 放心状態でチェアに腰をかけたツヨシは、信号音を鳴らしている受話器を切ると、デスクの上に置き、もう一度引き出しを開けた。
 引き出しの奥から財布が出てきた。とき子が落とした財布だった。
 ツヨシは、もう一度窓の外を見た。知らない通行人がいるだけだった。
 仮面ライダーの姿を思い出しながらほほ笑んでいたツヨシは、勢いよく引き出しを閉めると、突然堰を切ったように大声で泣き出した。自分でも分からない感情の渦を、涙と共に流し去るための泣き方だった。
 愛美が慌てて階段を上がってきた。
「どうしたの、何かあったの? アレ? あっ! ちょっとツヨシ、何やってるの! 早くドアを開けなさい!」
 ツヨシは、ドアノブが回らない様に、力いっぱい両手で押さえつけていた。
 母親の命令を無視し、いつまでも抵抗し続けた。
 夜遅く父親が帰宅すると、両親はドアにもたれかかって眠っているツヨシを発見した。目を覚ましたツヨシはまた泣き出したが、常に母親の味方だった父親がやさしくツヨシを抱きしめると、ツヨシは泣き止み、また眠りについた。

*  *  *

 翌朝7時15分。
 誰もいない代々木上原駅前の西原児童遊園地へ、塩沢がやってきた。
 迷うことなく、ブランコ正面のベンチ下の隅へ手を伸ばし、財布を取り上げた。
 塩沢は、中を開いてとき子の財布である事を確認すると、大事そうに上着のポケットへ仕舞った。
「ありがとう」
 ツヨシの家がある方角へ向かって頭を下げ、事務所へ向かった。

(Chapter 12-1へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第26回 Chapter 12-1

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Chapter 12-1

 油井から片瀬とき子の財布が見つかったとの連絡が入ると、仕事中にもかかわらず、すぐに徳田がコンビニの袋を手にしてアブソルート探偵事務所を訪ねてきた。
デスクチェアに座っていた油井は、制服姿の徳田を見て一瞬だけあきれ顔を見せたが、すぐに顔をニヤケさせると勝ち誇ったように足を組んでふんぞり返った。
「ようこそ、アブソルート探偵事務所へ! 有言実行! 当社は決して依頼主の期待を裏切りません。私が依頼主だったら、あまりの仕事の出来の良さに感動して、特別手当を支払いたくなるほどです。さぁさぁ、ソファへお掛け下さい。今から奇跡の瞬間をお見せしますよ!」
 困ったような笑みを浮かべたまま、徳田がソファに腰を下ろした。デスクから立ちあがった油井は、マジシャンの様に赤いスカーフを胸の前でヒラヒラと揺らしながら徳田の前で立ち止まる。涼しげな表情になると、小太りのマジシャンといった態で背筋を伸ばして、何も持っていない左の掌にスカーフをかざした。さっとスカーフを引くと、掌にとき子の財布が現れた。
 油井が上機嫌な時に、よくバーなどで披露する手品のレパートリーのひとつだ。
「タダーン! お探し物は、コレですかな?」
 徳田は小さくほほ笑んでから財布を受け取ると、中身を確認し始めた。クレジットカードや会員証の類にとき子の名前を見つけると、満足そうに頷いた。
「間違いなさそうですね。有難うございました。で、いったいどこで見つけたんです?」
「詳しくはココに書いてあるんで、まぁ読んでみてよ」
 油井が調査報告書を徳田へ差し出さした。その上にはちゃんと請求書が載せられている。
「では、お約束の50万円です。どうぞご確認ください。あとコレ、甘いものですけど、よかったらどうぞ」
 調査報告書を受け取ると、お尻のポケットから封筒に入った現金と、コンビニの袋を油井に手渡した。
「おお、スバラシイ! アリガトウゴザイマース!」
 満面の笑みを浮かべながら油井は封筒の中身を確認し始めた。それを見た徳田は、感慨深げに調査報告書に目を落とした。A4サイズのコピー紙にタイプをされた報告書は、徳田が思っていたよりもボリュームがある。
「確かに頂きましたー!」
 油井が大事そうに封筒をデスクの引き出しにしまう。
 徳田が報告書をめくろうとすると、
「ああ、その報告書だけど、望んでいた結末とは、ちょいと違うかもないかもしれないぜ。なんせ、実は財布泥棒がいたんだからな。おっと、それは読んでのお楽しみだったな。失礼、失礼」
 手を止めたまま、ためらいがちに報告書を見つめている徳田をよそに、油井は手土産のコーヒーとケーキに手をつけ始めた。
「ああ、そういえば」
徳田が思い出したように、別の話を始めた。
「あの外人のボネットさんを襲った犯人が見つかりましたよ。実は……」
「ちょっと待った―!」
 油井が大慌てで徳田を制した。
「俺が犯人当てるから、ちょっと待って。えーっと……」
 ふと塩沢が言っていた「彼は犯人をかばっている」という言葉を思い出し、
「ハイハイ。もちろん、そうだよね。―――犯人は、同じ会社の同僚! で、奥さん、それも日本人のね。奥さんを寝取られた同僚が、腹いせに公園で待ち伏せして襲ったんだな。ほらガイジンって、エキゾチックな顔立ちの日本女性が好きだったりするじゃない。で、ボネットっていう外人は、負い目があるんで、知っていながらも犯人を警察に教えなかった。さぁ、どうだ!」
「油井さん……、『エキゾチック』って、ちょっとステレオタイプ過ぎませんか? でもまぁ、大筋では間違ってないか。それで、実は犯人はですね……」
「ちょっと待て! あと1回。次は絶対に当てるから」
「油井さん。クイズじゃないんですから……」
 眉を寄せている徳田の言葉が耳に入らないのか、油井は真剣な顔で宙を睨んでいる。
「えーと。じゃあ、不倫関係になってポイ捨てされた日本人女性の復讐! それも相手が複数名いて、全員がいっぺんに来たんで抵抗できずに不意打ちを食らったんだよ。ほら、日本人は簡単に落とせる、とか言っちゃうフザケたガイジンいるじゃん? これが世間に知れたら会社の信用にも関わるし、日本にもいられなくなるんで、さすがに警察にも言い出せなかった。これでどう? 当たった?」
「また、そんな事言って……。―――犯人は、ボネット夫人。奥さんです」
「なんで言っちゃうんだよー! 次にそれを言おうと思ってたのにー!」
 徳田は体をねじらせて悔しがる油井を無視して、説明を始めた。

(Chapter 12-2へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第27回 Chapter 12-2

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Chapter 12-2

「今回の事でお世話になっているので、簡単に説明しますと、外資系金融会社の経済アナリストであるボネットさんが、日本支社に派遣されてきたのが3年前で、家族を日本に呼ぶ1年半前までは、2歳違いの夫人の妹さんが、ボネットさんの部下として日本で一緒に働いていました。その後、どういう経緯だかは知りませんが、2人は不倫関係になり、義理の妹さんはボネットさんの家族が日本へ来るのと入れ違いでシンガポールへ転勤になりました。
 ある日、夫人が妹さんに会うためにシンガポールへ行こうとしたら、曖昧な理由で断られてしまう。後日、シンガポールで妹さんを見かけたという知人から、妹さんはシングルマザーとして1歳になる女の子を育てているという事実が判明します。夫人が、子供の父親が誰なのかを訪ねても教えてくれない。そこで夫人は、疑惑の目を自分の夫に向けました。『女の勘』というよりも、自分が日本に行くまでの間、夫の世話を頼むわねと、妹さんを夫に近付けたのは自分だったからだそうです。
 妹さんもボネットさんも否定しましたが、ボネットさんにとっても妹さんの妊娠は寝耳に水だったようで、かなりの動揺をみせたようです。それでも奥さんを愛していたボネットさんは、とうとう告白をし、心からの謝罪をしました。一度きりの過ちだったとボネットさんは言っていますが、回数が問題なのではない、そこへ至るまでの心の軌跡が許せなかったのだ、と後に夫人は言っています。
 眠れない夜を過ごした夫人は、ジョギングに出かけようとしたボネットさんを呼び止めて詰問をしました。手にはゴルフクラブを握っていました。怒りに我を忘れた夫人は、衝動的にそのゴルフクラブを振り下ろしました。夫の頭から噴き出る鮮血を見た夫人は気絶してしまいます。ボネットさんは自分の犯した罪のせいで夫人を犯罪者にするわけにはいかないと、力を振り絞って代々木大山公園へ向かいました。公園についた所でボネットさんも意識を失い、野球少年たちに発見された、という訳です」
 仏頂面で話を聞いていた油井が、
「で、そのボネットって外人が自白でもしたワケ?」
「いえ、公園の周辺の下水溝から、ボネットさんが捨てたらしい血痕が付いたハンカチが見つかりました。それに、自宅玄関からも、公園へのルート上の道路からも血痕は発見されていましたからね。家に留まってさえいれば、ここまで騒ぎが大きくなる事はなかったんですが、そうもいかなかったんでしょう」
 油井は説明を聞きながら、塩沢が以前この件について「彼はミスを犯したからね」と言っていた事を思い出し、もう少し詳しく説明を聞いておけばよかったと後悔した。
「ったく、人騒がせな話だな。そのせいで、あの婆さんと子供が疑われたりしたんだからな」
 自分の事を棚に上げて、油井が言った。
「人は見かけによらないですね……。ボネットさんは奥さんを訴えるつもりはないし、奥さんも反省はしているので、もしかしたらすぐに釈放されるかもしれません。まぁ、何もなかったように元通り、という訳にはいかないでしょうが。ボネットさんには4歳になる1人娘がいます。親の身勝手で振り回される子供は、たまったものじゃありませんよね。―――ちなみに、誰が片瀬さんとツヨシ君を疑っていたんですか? 片瀬さんがボネットさんを訴えていた関係上、署の誰かが片瀬さんに報告はしたようですが、あの事件のことで、警察が2人を容疑者として考えていたという話は聞いていないんですが」
「え? そう? いやー、そんなウワサ話を聞いた事が、あったような無いような……」
 塩沢と徳田の2人から小馬鹿にされている気がして、気分が滅入ってきた。
「ところで、油井さんってガイジン嫌いでしたっけ? 外国人に対してかなりネガティブな感想をお持ちの様ですが……」
 自分でも気が付いていなかったのか、意外そうな表情をして油井がポツリとつぶやいた。
「塩沢の影響かな……」
「は?」
「いや、なんでもない、なんでもない。別に俺、外人嫌いじゃないよ。たださ、向うのフツ―レベルのルックスのヤツが、彫が深いとか足が長いってだけでこっちのハイレベルになるってのが許せないっつーか、悔しいだけ。外人のオタクなんかでも、俺とどっちかを選んでっていうと、女の子たちは十中八九ガイジンの方を選ぶでしょ?」
「……」
「さぁ、それはさておき、報告書読んでみてよ。こっちの事件は、そっちの事件に比べたらぜんぜん生臭くないっていうか、カワイイもんだよ」
 油井の外人論について困ったように黙っていた徳田が、
「そうですか……」
 と、あらためて報告書を見つめたが、すぐに思い切ってページをめくった。

(Chapter 12-3へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第28回 Chapter 12-3

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Chapter 12-3

 真剣な面持ちで報告書に目を通していた徳田が顔を上げると、困惑気味に油井を見た。
「コレって……」
「ああ、分かる、分かる。俺も最初は面食らったさ。ガキのする事は、今も昔も変わらないねー。ま、悪気はなかったんだろうけどさ」
「いや、この調査報告書を書いたのは、もちろん塩沢さんですよね。直接本人から話を聞くことって出来ませんか」
「なんだよ、その『もちろん』ってのは。アイツなら、今は次の仕事、っていうか、中断してた仕事に戻ってるから無理だね。で、何か質問? 俺に聞いてみなよ」
「いえ……」
 徳田は考え込みながら、最初から報告書を読みなおし始めた。
「ちぇっ、聞かないのかよ……。やっぱ、探偵業より、こっちなのかねぇ」
 PC画面で噂話が中心の芸能ニュースに目を通しながら、油井がしみじみと言った。そして、嬉しくなさそうにケーキの残りを頬張った。
 さっきまでの陽気さが消えてしまった油井は、つまらなそうにスプーンを舐め始めた。その様子を徳田が見つめていることに気づくと、顔を赤らめて大きな声を出した。
「な、なんだよ。みんな、スプーンくらい舐めるだろうが」
 徳田は油井の抗議に耳を貸すことなく、
「もうひとつ、別の依頼をしてもいいですか?」
 油井の顔が一瞬で仕事モードに切り替わり、目を輝かせながら身を乗り出した。
「マジ? いや、もっちろんですよー! 内容次第では、調査費用のサービスもアリですよー。なんてったってリピーターですからね! あ、でも、その点は要相談ということで、どうぞご了承ください。で、何の調査?」
「いえ、調査ではなくて、塩沢さんに頼んで、この事実を片瀬さんにも説明してもらえませんか」
 油井の顔から一瞬で興味の色が消えると、面倒くさそうに聞いた。
「はぁ? なんでよ?」
「僕の依頼は、財布を見つけてもらう事まででした。でも、なんかスッキリしないんですよ。しまりがないというか、尻切れトンボというか……。僕が片瀬さんに事情を説明する事は出来ます。出来るんですが、隠れて探偵を雇っていたと知れるのは、決まりが悪い。それに今回の事は、誰が悪いわけでもない。偶然の重なりが起こしたイタズラみたいなものですよね。犯人捜しをしたかったわけじゃないのに、結果的に、ツヨシ君を悪者にしてしまった……」
「別に、婆さんに教えなきゃいいじゃん。財布の拾い主が、良心の呵責に耐えかねて交番の前に黙って置いていった、って話でいいんじゃないの? そんな難しく考えなさんな。知らない方がいい事もあるって、マジで」
「単なるお節介だとは承知しているんです。ですが、そこを何とかうまく説明してもらえませんか? 例えば、ジェームズさんが自分の疑い晴らすために、油井さんたちを雇った。その過程で様々な事実が明るみに出て、お節介焼きの探偵が、事件の関係者に説明をしてくれた、というのはどうですか?」
「お前ねぇ……。お節介焼きの警察官として、自分で勝手にやってくれよ。って、いうレベルの話だぜ。それにその設定自体にも無理があるだろ。殺人事件の容疑者にされているならまだしも、スリの容疑ごときで、無実の人間がそんなことしないでしょ、フツウ。後で婆さんに確かめられたら俺も困るし、外人との気まずい再会を招くかもしれないだろ」
 油井は興味なさそうに返事をしたが、徳田の困る顔を見て多少気分が良くなっていた。
「まぁ、俺もお金は欲しいよ、実際。でも、終わった案件にいつまでも首を突っ込むのも、どうかと思うわけよ。探偵業はドライじゃないと続かないでしょ。それに今、塩沢は忙しいからさ。締め切りが迫ってるんだわ。ま、どうしてもって言うなら、今の案件が終わり次第聞いてみるよ。来週でもいい?」
 油井が探るような眼を向けた。徳田は黙ったまま俯いている。
「そもそもさ、知り合いでも何でもないのに、なんであの2人をそんなに気にする訳? 別に恩を売りたい訳でもないだろうし。そこがわっかんないんだよなぁー。俺が気にする必要もないんだけどね、ホントは」
「そうですよね……。なんでかな。そう言われると、実は自分でも分からないんですよ。人助けは元々嫌いじゃないし、今の仕事についているのもそういう理由からですし……。でも、どこかで『いい人』になりたいと思っているんですかね? 無駄にお金を多く持っている人間は、他者を助けるためにそのお金を使うべきだ。そんな建前はありますけど、なんかイヤらしいですよね、偽善者っぽくて」
「あ、いやー、それは、そう、ねぇ……」
 意外な徳田の反応に言葉が見つからず、そのまま黙ってしまった。
「……でも、多少はこの報告書の影響もあるかな。塩沢さんも僕と同じ気持ちなんじゃないか、そんな気がしたんですよ。塩沢さんの文章には、彼らに対する気遣いというか、彼らの今後を心配しているような、そんな気持ちが行間から伝わってくるんですよ。だからかな、自然と塩沢さんなら引き受けてくれると思えたんです」
「へぇ……」
 あの人間不信者が、とは続けなかったが、今回の件で一連の塩沢の変化を見て来た油井は、納得出来る気がした。
「もし可能なら、ツヨシ君のためにも、あまり間を空けずにこの件をまとめあげて欲しいんです。あの子は、もう色々と事情を察してはいると思います。なので、僕から必要な事は伝えるつもりです。ただ、何も事情を知らない片瀬さんは、この事でもっと代々木上原から足が遠ざかってしまう。自分がまいた種とはいえ、このまま1人で残りの人生を過ごすというのは、あまりにも淋しすぎる……。とにかく、今回同様にお支払いします。お願い出来ませんか?」
 驚いてむせてしまった油井は、慌てて息を整えると、
「ウソ! ―――もう後、50万円貰えるって事?」
「はい。お支払いします」
「ほほーっ! ほうほう。うんうん、そっかー。そうね、人助けだしね。俺もね、人助けは大好きなんですよ、ホントに。ではでは、塩沢クンを説得してみましょーかね!」
「方法はお任せします。よろしくお願いします」
 徳田が頭を下げた。
「了解! しっおざわちゃーん、おっ帰んなさーい、と」
 油井はこれ以上ないくらいの上機嫌さで携帯電話を取りだすと、電話をかけ始めた。
 塩沢が電話に出ると、相手が話す隙を与えずに「緊急の用事が出来たので事務所に戻ってきてくれ」とだけ告げ、一方的に電話を切ろうとした。だが、無言になったと思った瞬間、
「ウッソー!」
 と、まるで人生で一番幸せな時が訪れたかの様に、高音の叫び声を上げた。
油井がバッと徳田の方を振り向き、親指を上げる。電話を切った油井は、席を立つと小躍りを始めた。なぜかサンバのリズムだ。
「なんと、塩沢の仕事もすでに完了だと! ワァオ! 信じられるか、このタイミング! ちょっと出来すぎでコワいよなぁ。でも、ぜーんぜん気にしないよーん! なんてったって俺の人徳だからねー!」
 片手をヒラヒラと動かしながら前後にステップを踏み、頭を振りながら、早くも額から流れ出た汗を周囲に飛び散らしている。
「やっと塩沢さんに会えそうですね」
 油井の動きがピタッと止まる。
「あっと、いや、アイツかなりの恥ずかしがり屋でね。人前に出たがらないんだよね。クソ真面目な奴でさ、『本来探偵はクライアントにすら面が割れてちゃいけない』とか言うんだぜ。―――なので、申し訳ないんだけど、お引き取り願える?」
「そうですか……。誰にも姿を見せないなんて、まるで忍者ですね。では、電話で直接お礼だけでも言えませんか?」
「いや、徳田が感謝をしていたことは、俺から伝えておくから大丈夫。悪いね、気難しい相棒でさ。とにかく、後の事はうまくやっておくからさ、ご安心を。ではでは、また逢う日まで。さようなら」
 調査報告書を手にして徳田が立ち上がると、追い立てるように事務所から出した。
 自分のデスクの戻り、徳田から渡された50万円を引き出しからを出して眺めた。思わず顔がほころぶ。
「さーて、後はどうやってアイツを説得するか、だな……」
 1分ほど思案顔で腕組をしていたが、次第に手がPCのマウスに伸びると、そのまま「気分転嫁モード」へ突入し、ネットのショッピングサイトへ入って行った。

(Chapter 13-1へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第29回 Chapter 13-1

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Chapter 13-1

 午後の陽ざしを受けた木々の黒い影とピンク色の桜の花びらが、代々木大山公園の薄茶色の地面に綺麗なコントラストを描いている。入り口から正面の少年野球場に向かって、公園を2分割するように舗装された道がのびており、右側には遊具がまとまって設置されていて、左側は日時計などが置かれたオープンスペースになっている。
 子供たちを自由に遊具で遊ばせている母親たちは、子供たちの様子を気に掛けることなくオープンスペースで立ち話に夢中になっているが、子供たちは元から親の目など気にしていない。子供たちは子供たちで、遊具の順番を待ったり、近づいてくる他の子供との距離を確認したり、一緒に遊ぶ方法を模索したりと、それぞれ十分に忙しい。
 何の変哲もない午後の風景だが、桜吹雪の中で目にする景色は、全てが美しく彩られている。
 突然の強風で土煙が舞い上がった。母親たちは一斉に風下へ顔を向けて目を閉じた。子供たちは嬌声を上げて喜んだり、逃げ回ったりしている。
 赤い小さな帽子が、公園入り口近くのベンチまで飛ばされてきた。4歳ぐらいの女の子が立ちすくんだまま、その帽子の行方を目で追っている。一緒に遊んでいた同い年位の男の子が、女の子の帽子を追いかけてベンチへ向かって走ってきた。
 勢いよく飛んできた帽子が、壁にでもぶつかったかの様に突然ベンチの前で動きを止めた。そして、ふいにUFOのように浮かび上がり、クルクルと回転し始めた。
 男の子が驚いて足を止める。女の子も目を丸くして、突然意志を持ち始めた自分の帽子を見つめている。クルクルと回転しながら男の子の横を通り過ぎると、帽子が自分に向かって飛んでくることが分かった女の子は、体を強張らせながら急いで目を閉じた。
 帽子は回転を止めると、女の子の頭にポンと乗っかった。恐る恐る目を開けた女の子は、男の子に急いでくるように目で合図をした。男の子は駆け足で戻ってくると、女の子の頭の上から帽子を取って中を覗き込んだ。女の子も一緒になって帽子の秘密を探り始めた。恐怖心が好奇心に変わると、2人は目を輝かせて見つめ合う。女の子は帽子を手にしたまま、母親たちの輪に向かって走り出した。
 子供たちの背後から大きな人影が延びていた。その人影は、困ったように頭に手を当てていた。

(Chapter 13-2へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第30回 Chapter 13-2

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Chapter 13-2

「ママ、ママ! 今すごいことがおこったの!」
 女の子が母親の袖を引っ張りながら、興奮した声を上げた。
「なぁに、ハルちゃん? 桜の花びらがヒラヒラすごかった?」
「ちがう、ちがう。ハルの帽子がとんだの! それでね、ハルのあたまにのったの!」
「それは、すごい、風のいたずらね。ママも見たかったな。またこんど風がふいたら教えてね」
 母親は女の子にほほ笑むと、他の母親たちに肩をすくめ、おどけてみせた。流行のファッションに身を包んだ若い母親だ。娘の服装にも気を使っているらしく、娘にも同系の黄緑と桃色の服を着せている。
「ホントなの。向うのベンチから、ハルの帽子が、とんできたの! ホントにホントなの!」
「わかったわ、ハルちゃん。たぶん、クマのメイちゃんが、とどけてくれたのね。いつもハルちゃんがなくしたお人形さんを見つけてくれるものね」
 母親は少し困ったような顔をして、
「いつもの、この子にしか見えないお友達の話よ、たぶん」
 と、他の母親たちに弁解するように説明した。みなそれぞれ流行色を取り入れたり、ファッション誌のコーディネートを参考にしたりと、それなりに洒落た格好をしているが、女の子の母親ほどは洗練はされていない。
 隣に立っていた男の子が、女の子の母親に抗議をした。
「ボクもいっしょに見たよ。ハルちゃんウソなんていってない」
「あらヤダ。うちの子、いくらハルちゃんが好きだからって、ねぇ?」
 男の子の母親が、女の子の母親の顔を窺いながら言った。ちょっと太めの女で、かなりラフな格好をしているが、女の子の母親の格好や身振りに一番の注意を払っている。
 男の子は口をとがらせて、自分の母親に何かを言おうとしたが、それを遮るように女の子が大声を出した。
「ハル、ウソつかないもん。ママ、大っきらい!」
 他の母親たちは、「わかる、わかる。どこも同じね」という含みを持った顔で親子を見ている。
女の子の母親の表情が一変すると、娘を睨んだ。娘に恥をかかされていると感じたのか、顔が赤くなっている。
「もう、しつこいわよ、ハル! じゃあ、そんな気持ちのわるい帽子、すてちゃうからね!」
 すると、女の子がいやいやするように、帽子を背中に隠した。その途端、男の子が女の子の帽子を奪い取り、ジャングルジムの方へ向かって走りだした。
「あの、バカ息子!」
 男の子の母親が走り出そうとした瞬間、再び園内を強風が襲った。土煙が母親たちの輪へ向かって吹いてくる。男の手から、帽子が強引に飛び立った。
 帽子は再び回転を始め、女の子へ向かい始めた。男の子は、しりもちをつきながらも、満足げに帽子の行方を見つめている。女の子も嬉しそうに手をのばしながら帽子の帰りを待っている。
 母親たちは、一様に目を剥いて硬直していた。帽子が女の子の手にそっとランディングすると、女の子は帽子を強く抱きしめた。
 ふいに見えない力に引っ張り上げられて、男の子が立ち上がった。男の子が驚いて周囲を見回と、その耳元へ囁く声が聞こえてきた。
「ごめん。自分が人から見えないって事を、つい忘れちゃってね。迷惑かけたね」
「……え?」
「あっ、いや、そうそう、俺は、帽子の妖精なんだ」
 男の子は興奮した顔つきで声のした方に耳を傾けた。
「今までハルちゃんには内緒にしていたんだけど、ついみんなの前で帽子を飛ばしちゃって、失敗したな」
「なんでナイショなの? おともだちが妖精なんてカッコイイのに」
「えーっと、そうかな。でも帽子の妖精なんて、何の役にも立たないだろう? 今みたいにハルちゃんに迷惑をかけるだけだ。本当にハルちゃんに必要なのは、君のような友達なんだよ。俺はもう妖精の国に帰らなくちゃいけない。だから、ハルちゃんをよろしくな。後は頼んだよ」
「えっ、もう? ……また、あえるの?」
「残念だけど、妖精は人間に見られてはいけないんだよ。だから、もう戻ってはこれない」
「そうなんだ……」
「ハルちゃんには今の話をしてもいいけど、他の人には内緒だよ」
「うん、いいよ。ナイショだもんね」
「そうだ。じゃあ、さようなら」
 男の子の影と重なっていた大きな影がすっと離れて、そばの大木の影に混ざり合った。男の子は後ろを振り返って女の子を見た。
 女の子の母親が、女の子から帽子を奪っていじくりまわしていた。他の母親たちは、携帯電話で動画の撮影をする準備をして待ち構えている。中には自分の帽子を投げて試している母親もいる。事情を知らない子供たちが寄って来て、帽子投げ大会が始まった。
 地面に落ちたどの帽子も飛び上がる事はなかった。
 男の子がそっと女の子のそばへやって来た。不満そうに母親を見つめていた女の子に合図をすると、男の子は女の子の手を引いてその場から離れて行った。男の子は女の子を引き寄せると、目を輝かせながらないしょ話を始めた。

「はい」
 周囲に人がいない事を確認してから、塩沢が電話に出た。無言で油井の話を聞いている。
「……わかった、これから戻る。それと、こっちの案件は、とりあえず終了だ」
それだけ言うと、スクープ写真の詳細を聞かれる前に電話を切った。
 公園前の道路を、一陣の風が代々木上原駅へ向かって吹き抜けた。
 塩沢の視線の先に、公園の植え込みとは相いれない小さな花壇があった。誰かが勝手に植えた物らしく、目立たない場所が選ばれていた。すでに枯れてしまっていたが、その花たちは見覚えがある物ばかりだった。
 塩沢は視線を道路に向けると、坂道を下り始めた。

(Chapter 14へ つづく)

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春は、お正月よりも「フレッシュ・スタート」を意識させる季節ですね。もしかしたら、年始の誓いが全く守られないままでいる事に焦りを感じているので、本当は「リフレッシュ・スタート」なのかもしれませんが…。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第31回 Chapter 14

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Chapter 14

 油井が出したオプションは、2つだった。
「マスクを被って別人として直接説明するか、ビデオ撮影してお前の説明を見てもらうか、どっちがいい?」
「……俺が、会って説明をするのか?」
「その通り。イヤならビデオでもいいんだぞ。鏡に映るんだから、ビデオにも映るだろ? だからどっちか選んでくれ。さぁ、どっちにする?」
 油井は、新宿丸正2階の百円均一コーナーで買った手鏡を手にしながら話している。姿見も出したままにはなっているが、塩沢が部屋の中を動く際に手鏡の方がその姿を追いやすいと用意した物だ。
 塩沢は油井を真っ直ぐに見ながら困惑した表情を浮かべている。
「少し、考えさせてくれないか……」
「お前の報告書を読んだ徳田が、『塩沢さんも僕と同じ気持ちなんじゃないか』とか、『彼らの今後を心配する気持ちが伝わってくるんですよ』なんて言うんだからさ。今さらそんなつもりじゃなかった、とか言うなよ。さぁ、望み通りそのチャンスがやって来たんだ。お前の言葉で彼らにちゃんと気持ちを伝えてやれよ」
「……」
 塩沢が事務所に帰ってくるなり、「新しい依頼が入ったからよろしくな。それも依頼人はお前を御指名だ。ま、調査員はお前一人なんで、指名してもしなくても同じだが。とりあえず、さっそく準備に取り掛かるぞ」と、いつもの油井らしからぬ、懇願の響きのない命令口調で要件を伝えてきた。「盗撮」の依頼ではないことと、塩沢本人が希望した仕事だと印象づける事で、強気の態度が生まれていた。
 塩沢もやはり思う所があるのか、露骨な拒否反応は見せていない。ただ、図らずもまた他人に自分の姿を見せる機会がやってきた事に、戸惑いは感じていた。
「実は、選択肢は与えたものの、お前は絶対人前に姿を見せない人間だ、と徳田に言っちまってるんで、もう一回『仮面』の方でやってもらう方がいいかもな」
「……ツヨシ君の方は、徳田君が説明をしてくれると言っていたな」
「ああ。だが、2人まとめて説明したかったらそうしてもいいぞ。方法は任せる」
「……」
 油井は用件だけを言うと、すぐにデスクの上のPC画面に目を向けた。
 塩沢はソファに腰掛けたまま何かを考え込んでいたが、いつもの無表情に戻ると、立ちあがって紅茶を入れ始めた。慣れた手つきとはいえ、考え事をしているのか動作が若干もたついている。
 油井は塩沢の様子には無関心を装いながらも、隠れながら手鏡を使って様子を窺っている。
「しかし、アレだな。これも結局は、お前のための『リハビリ』みたいなモンだよな。少しずつ人前に出る機会を増やしてさ、その内にまたこっちの世界に戻ってこられるようになるんじゃないか? 徳田の依頼も最初はバカらしいと思ったけど、結果的には悪くなかったよな」
 塩沢は油井に背を向けたままで、その問いには答えない。
 鏡に映る塩沢の背中を見ている内に、油井は徐々に弱気になり始めていた。
「……それとも、まだ消えたままの方が、いいのか?―――どーしても、どーしても無理なら、断ってもイイぞ、いちおう。金は多くても困るもんじゃないが、ま、今回の依頼はオマケみたいなモンだしな。色々と支払いもあるっちゃーあるけど、買いたい物や食べたい物もたくさんあるが、待てないワケでもないし……。で、どうする……?」
「いや、大丈夫だ。今、方法を考えていたんだが、たぶん何とかなると思う」
 PC画面に顔を隠しながら、油井が安堵の息をそっと吐いた。
「そうか? あんまり無理するなよ。何か手伝えることがあれば、何でも言ってくれ」
「では、徳田君の電話番号を教えてくれないか。彼に頼みがある」
 油井は思わず中腰になって、台所の周辺を見た。だが、塩沢がすでにソファに座っている様子を姿見に見つけると、もう一度座りなおして手鏡を手にした。
「別に構わないが、お前の正体がバレやしないか? 口が軽い奴ではないが、お前の事はまだ秘密にしておきたいからな……」
「ただ電話をするだけだ。直接会うつもりはない。彼がツヨシ君に会いに行く前につかまえたいんだ」
「そうか……。よし、わかった」
 油井は安心したようにウンウンとうなずくと、携帯電話の電話帳を検索し始めた。
 淹れたての紅茶の香りを嗅ぎながら、塩沢は胸に去来する様々な思いを整理していた。

(Chapter 15-1へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第32回 Chapter 15-1

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Chapter 15-1

「まず、片瀬とき子さんの財布はどうなってしまったのか。その事から説明したいと思います。外国人男性ジェームズ・R・ボネットさんによるスリ被害の件は、失礼ながら、最初から間違った思い込みによるものでしかなく、今ここで説明する事はいたしません。ご覧のように、私は片瀬さんの財布をこうして持っています。これで十分に説明のつく事だと思います」
 油井が言ったように、塩沢の姿は問題なくビデオに映し出された。だが、ビデオの中の塩沢は、色の濃いサングラスとつけ髭で素顔を隠している。ビデオ撮影する方法を選択はしたが、「顔だし」はしなかった。まだ素の自分を他者にさらす気にはなれなかったからだ。
 塩沢の話がウソではない事を証明するために、徳田からとき子の財布を一旦預かり、ビデオの中で小道具として使用している。相手を信用させるためでもあり、サングラスにつけ髭という胡散臭さを、多少でも解消させることが狙いでもあった。
「では次に、私が財布を見つけるにいたった経緯をお話しいたします。事実確認が取れている事もあれば、私の推察も入っていますが、大筋では間違いないはずです。
 ツヨシ君がいくら躾の厳しい家庭に育ったとはいえ、片瀬さんの財布が『掏られた』事を自分のせいとして思い悩み、精神を病んでしまうというのは腑に落ちませんでした。そこで私は、彼が財布を見つけたという仮説をたてました。正義感が強く、失敗を恐れる彼のことです。自力で見つけ出そうと考えてもおかしくはない。もしかしたら、あの坂道での出来事を振り返って、どう考えてもジェームズさんがスリを働いたとは思えなかったのかもしれません。そして私と同様に、彼もまた片瀬さんのズボンに土汚れが付いている事に気がついていたのです。彼は代々木上原周辺で土汚れを生じさせる場所を探しまわり、西原児童遊園地に行きつきました。努力は実り、ツヨシ君は財布を見つけたのです。
 片瀬さんのズボンの汚れは、西原児童公園のブランコから落ちた際に付いたものです。偶然そこへ煙草を吸いにやって来た男性に、ブランコを揺らす手伝いをさせました。その男性がどう感じたのかは知る由もありませんが、ぞんざいな物言いをする老婆を、少しばかり驚かせてやろうと思ったのかもしれません。
 結果として、勢い余って片瀬さんはブランコから振り落とされてしまった。その日は蓋なしのハンドバッグを持っていたために、中身が地面に飛び出して、財布は勢いよくベンチの下まで飛んで行きました。その後ツヨシ君に見つけられるまで、財布はそのままでいたのです。では、なぜ大事な財布を拾い忘れて、そのまま確認もせずに公園を後にしてしまったのか。それについては、多分に私の推定が含まれていますので、順を追って後ほどご説明いたします」
 撮影した動画は、タブレット型のPCに入れられていた。油井は、当初DVDに動画を入れて渡す事を提案したが、動画を見るまでのタイムラグが長いことで、後回しにされてしまう可能性が高いと、塩沢がタブレットPCを使うアイディアを出した。「また余計な出費が掛かる」と反対されると思いきや、意外なことに油井はあっさりと必要経費として認めてくれた。
 ネットで最安値のタブレットPCを見つけたり、ビデオ撮影の助手をかって出たりと、めずらしく油井も貢献した。ビデオの解説だけで50万円というのは、さすがにボッタクリだと感じたのかもしれない。

(Chapter 15-2へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第33回 Chapter 15-2

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Chapter 15-2

 ビデオの中で塩沢は、事務所の白い壁を背にしてイスに座っている。余計な物が映り込まない様に、事務所の棚などは移動してあった。
 塩沢の口調は、まるで淡々と説明する教師のようで、そこに熱意というものは感じられない。だがそれは、感情的になりかねない自分を抑えるためでもあり、とき子とツヨシに事実を客観的に知ってもらう事を第一に考えてのことでもあった。しかし、塩沢の感情は言葉の端々に滲み出てしまっていた。
「では、なぜツヨシ君は見つけた財布を、すぐに片瀬さんに返さなかったのでしょうか。片瀬さんの横柄な物言いに不満があり、仕返しをしたかったのでしょうか。それとも、少ないおこずかいでは、仮面ライダーの食玩を満足に買えないので、ついつい魔が差してしまったのかでしょうか? いえ、彼は仮面ライダーのように、正義感の強い少年です。窃盗を犯したりなどしません。
 まず財布を見つけたら、中身を確認するのが普通です。もちろん、ツヨシ君もそうしました。そこで彼は、偶然ある人物の写真を見つけてしまったのです。仮面ライダーよりも何よりも、彼にとって、もっとも大切な人物の写真でした。その写真こそが、今回の事件を引き起こした原因でもありました。
 それは、彼がずっと思いを寄せていたクラスメートの本田麗奈さんの写真でした。麗奈さんは、不幸なことにすでに他界しています。去年の夏、帰省先であるお父さんの実家で、交通事故に遭ってしまったのです……。
 なぜ麗奈さんの写真が、片瀬さんの財布の中から出てきたのでしょうか。一般的な見方をすれば、それはごく当たり前の事かもしれません。なぜなら、片瀬とき子さんは、本田麗奈さんのお婆さんだからです。しかし、麗奈さんはその事を知らなかった可能性があります。
 この事については、先程の片瀬さんが慌てて公園から出て行ってしまった件と密接な関係がありますので、後ほどまとめてお話いたします」
 塩沢が「一回止めてくれ」と合図をして、映像が途切れた。収録前から用意してあったアイスティーを飲むための合図だったのだが、「後でカットしておくから」と約束した油井が、そのまま手をつけずに残ってしまっていた。
 イスに座りなおした塩沢が、サングラスの位置を調整しおえると、再び話し始めた。
「財布の中から写真を見つけたツヨシ君は、衝動的に抜き取ってしまったのだと思います。麗奈さんの死のショックが癒えないでいた彼にとって、それはまるで天からの贈り物の様に感じられたかもしれません。
 しかし、財布を無くした片瀬さんの憔悴しきった顔も知っています。ツヨシ君は、片瀬さんが本当に取り返したかったのは、この写真だと気がついたのだと思います。財布を交番に届けても、この写真だけが無くなっていたら、それはそれで妙な話です。写真のコピーをとって戻せばよかったのかもしれませんが、片瀬さんの財布を持ったまま、コソコソと犯罪まがいの行為をする事も出来なかった。最初に会った時の片瀬さんしか知らないツヨシ君に、写真のコピーを取らせて下さいとお願いする勇気は出せなかったでしょうしね。結果、彼はそのまま財布を持ち帰ってしまった。
 『罪』に対する恐怖心と、ささいな間違いでも許さない両親に対する恐怖心との相乗効果で、ツヨシ君の精神は異常なストレスを抱えてしまいました。そして、2度にわたる発作的な万引き行為を働いてしまいました。それは、告発行為にほかなりませんでした。自分が犯した犯罪を、自分自身が許さなかったのです……」
 サングラスで表情は隠されていたが、その声には憂いを含んでいた。
「これは、本当に『犯罪』なのでしょうか。落し物をしても盗まれない国として、海外での日本の評判はかなり高いそうです。だからと言って、落し物をしても大丈夫という思い込みは間違いです。日本とは比較にならないほど治安が悪い国も多くあるのは事実ですが、日本もけっしてユートピアとは言えないでしょう。
 人がミスを犯す時、そこには必ず理由やきっかけがあります。それを事前に排除したり、察知できるように感覚を研ぎ澄ませておくは大事な事かもしれません。しかし、完璧な人間など存在しないし、ミスを犯すことによってしか成長できない人間的な要素というのも、たしかに存在するのです。
 自分の気持ちを優先して、麗奈さんの写真、及び片瀬さんの財布を隠匿したツヨシ君を『犯罪者』と呼ぶには抵抗があります。彼は今回の事で苦しみ、また学んだと思います。彼の償いは、彼の今後の人生に委ねられるべきではないでしょうか」

(Chapter 15-3へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第34回 Chapter 15-3

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Chapter 15-3

 事件解説の動画が収められたタブレットPCは、徳田がツヨシととき子それぞれの元へ直に届けた。
 徳田とツヨシは、アコルデ内の「バーガーキング」で待ち合わせをした。徳田の事は信用しているのだろう。ヘッドフォンと一緒に手渡されると、ツヨシは徳田に言われるままにその動画を見始めた。  
 動画を見終わったツヨシは、しばらく徳田を正視する事が出来なかったが、とき子にまだタブレットPCを届けていない事を確認すると、「ちょっと、待っててもらえますか」と言って席を立った。15分ほどで店に戻ってきたツヨシは、1通の封筒を手にしていた。
 ツヨシと別れた後、徳田はとき子の自宅まで出向き、財布と一緒にタブレットPCを手渡した。それ他に加えて、動画視聴後に読むことを念押ししてから、ツヨシの手紙を手渡した。
 とき子の自宅は、自由が丘の駅から徒歩7分ほど歩いた所にある築40年以上経ったマンションの一室だった。アトリエを兼ねた2LDKの広い部屋で、整理整頓はされているが、いたる所に自作の絵が飾られていた。自宅兼アトリエというよりも、アトリエに住み込んでいるという印象で、あまり生活感が感じられなかった。
 ツヨシの時のように解説を見終わるまで同席はせず、タブレットPCの使い方を説明して、見られる状態にしてからとき子の家を後にした。
 徳田の真剣な表情が、とき子を多少動揺させたが、「必ず見て下さい」という徳田の言葉を無視する事も出来ず、とき子は動画を見始めた。
 動画の中で、塩沢が話し続けている。
「片瀬さんが財布を落としさえしなければ、この『事件』とも呼べないような事件は起こらなかったはずです。しかし、片瀬さんは財布を落とし、ツヨシ君は坂を上がれないで困っている片瀬さんと出会ってしまった。
 もともと、片瀬さんは西原児童遊園地ではなく、代々木大山公園へ行くつもりでした。なぜなら、そこが片瀬さんと麗奈さんの密会場所だったからです。
 麗奈さんのお母さんは、代々木上原在住の著名なピアニストである本田たか子さんです。昨年辺りから、美人ピアニストとして知られるようになってきていますね。金融関係のお仕事をされているご主人と娘の麗奈さんの3人で幸せな家庭を築いていた矢先に、家族の宝物である麗奈さんが他界されてしまった……。そして、唯一の孫娘を失った片瀬さんが受けたショックもまた、大変なものだったと想像されるのです。
 先程お話ししたように、片瀬とき子さんは、本田たか子さんの母親です。しかし、片瀬さんと本田さんが一緒に過ごした時間は僅かしかありませんでした。本田さんが生まれてすぐに、片瀬さんは家族を捨てて海外へ行ってしまったからです。片瀬さんが敬愛する画家がドイツにいて、その方に師事し、教えを乞うためでした。  
 10数年の滞在の間に、ヨーロッパでは名が知られるようになった片瀬さんですが、日本帰国後は、無名の新人以下の扱いを受け、日本の美術界から抹殺されてしまいました。一説には、片瀬さんが師事していたドイツ人の画家との不倫関係が表ざたになり、お偉いさん方に嫌われたためとも言われていますが、日本画壇に見向きもせず、海外へ出て名声を得てきた『出戻り』をチヤホヤするのが癪にさわったのかもしれません。
 インターネットというのは、本当に便利というか、ちょっと怖いくらいですね。片瀬さんの経歴や、人生波乱万丈といった様々な苦労話がネットで簡単に見つかりました。ただそれも、そのような不当な扱いにも負けることなく絵を描き続けてこられたからこそで、現在では片瀬さんの絵は再評価を受け、徐々に個展や回顧展などが開かれてきているようです」
 塩沢がとき子の画集を床から拾い上げて、その表紙に目を落とした。
「芸術家の子供もまた、芸術家でした。娘の本田さんは、ピアニストとして大成されました。しかし、自分と家族を捨てた母親を憎む心が消えることはなかった。本田さんが雑誌のインタビューなどで生い立ちを語る時などは、元からいなかったかのように母親に言及する事はありません。
 家族を捨ててまで、自分の夢を追い続けた片瀬さんでしたが、やはり常に心のどこかで家族を捨てた事に対する罪悪感を抱いていたようです。面と向かって娘さんに謝ることを選択しない代わりに、その気持ちを絵で表現していました。
 それは、ここにある片瀬さんの画集の表紙絵でもある、一輪の花を抱きしめる痩せこけた裸婦の絵に現れています。花は真っ赤な椿で、たか子さんの生まれ月に咲く春の花です。本来ならば小さい椿を大きく描き、まるで成長した娘を慈しむように抱きしめる女性は、片瀬さんの分身なのです。この絵のタイトルは「花椿落椿」といい、描かれている椿も西洋椿ではなく日本古来の物です。この懺悔の表現の意味する所は、彼女を認める評論家の間では周知の事実であり、私の勝手な想像ではありません。
 年老いた片瀬さんに、何かしらの心境の変化があったのでしょうか。ある日、代々木上原へ、娘さんが住む町へと、足が向いたのです。
 代々木上原へ足を運んだ一番の理由は、やはり麗奈さんの存在だったのかもしれません。ピアニストとして大成された娘さんの話や、孫の麗奈さんの事は、むろん知っていました。日本帰国以来、ずっと1人で暮らしてきた片瀬さんにとって、麗奈さんは唯一の孫であり、最後の希望でもありました。
 孫というのは、かわいいものです。それが、自分を憎んでいる娘の子供だとしてもです。代々木大山公園で麗奈さんを見つけた片瀬さんは、本来の自分に戻り、『近所の優しいお婆さん』として接していたのでしょう。
 回数を重ねる内に、プリクラの代わりとして、インスタントの証明写真機で一緒に写真を撮るまでの仲になりました。その写真こそが、片瀬さんが宝物として、いつも財布にいれて持ち歩いていた写真なのです。麗奈さんだけを撮った写真は他にもあるかもしれませんが、片瀬さんの取りみだし方を見ると、2人で一緒に映っている物は他になかったのでしょう。片瀬さんが持つ、唯一のお孫さんとの大事なツーショット写真でした。
 代々木大山公園の隅にある植木の陰に、小さな花壇があります。他の公園内の花壇とは違い、その場所にだけ椿が植えられています。すでにその花は落ちてしまっていますが、片瀬さんと麗奈さんが植えたものかもしれません。片瀬さんが、何度となく代々木大山公園へ『お参り』へ行こうとした理由から想像した、私の推測でしかありませんが、間違ってはいないような気がしています」
 画集を床に戻した塩沢は、カメラを見据えながら姿勢を正した。
「さて、最後になりますが、片瀬さんが財布を落とした事に気づかないまま、公園を後にした理由をお話して、この事件の説明を終えたいと思います。
 片瀬さんが西原児童遊園地のブランコから落ちてしまった時、ちょうど本田さん夫妻が近くを通りかかったのではないかと推測しています。本田さんは現在、古賀政男音楽博物館のけやきホールで行われる、古賀政男の曲をクラシック風にアレンジしたリサイタルの準備中です。本田さんの自宅から古賀政男音楽博物館までは、その公園の前の道を通って行く事になります。
 片瀬さんは、歩いてくる本田さんに気づき、大慌てで裏道から出て行った。強く押しすぎた男性を叱り飛ばす事もせず、落し物の確認をする余裕もありませんでした。ハンドバッグから財布が飛び出した事自体知らなかったのでしょう。
 結局、この偶然の重なり合いがあの『スリ騒動』を起こし、麗奈さんの写真の存在が、ツヨシ君を精神的に追い詰め、この小さな事件は起こってしまったのでした」

(Chapter 16へ つづく)

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代々木上原といえば、この「古賀政男音楽博物館」です。それと、並びにある「JASRAC」。代々木上原は音楽の町でもあります。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第35回 Chapter 16

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Chapter 16

 アコルデ代々木上原2階にある「御菓子司 日本橋屋」と「銀座コージーコーナー」を行ったり来たりしながら、片瀬とき子は手土産を物色していた。和菓子屋と洋菓子屋では扱う品がまったく違うのだが、それでもしばらく悩んだ末に、とき子は最終的に銀座コージーコーナーに決めると、ショートケーキをふたつ買った。
 前回、前々回のように「花市場」へ寄らなくても済むように、今日は地元の花屋で花束を用意してきていた。今までで一番豪華な花束だった。
 服装は、まるでハイキングに行くかのようなパンツ姿で、ウォーキングシューズまで履いている。
 北口出口から地上へ降りて、駅前の西原児童公園にやってくると、中へは入らずに財布が落ちていたというベンチ下を見つめた。周囲を眺めながらしばらく様子を見ていたが、ベンチ周りに煙草の吸い殻が落ちていないのを確かめると、代々木大山公園へ続く道を歩き始めた。
 とき子は、ゆっくりと足の具合を確かめるように歩を進めていた。十字路を右に曲がれば、後はひたすら直線距離を進んで行くだけだ。温かい春の陽気のためか、とき子の首筋に汗が浮かび始めた。 
 公園へと続く長い坂が見えてきた。その坂の下に、ツヨシが立っているのが見えた。とき子は気を引き締めると、少しだけ歩調を速めた。

「おい、ドロボーだぜ!」
「あ、ヒキコモリじゃんか!」
 自転車に乗った小学校のクラスメート3人が、ツヨシを見つけて寄ってきた。
 「あっ」と声を上げそうになったツヨシは、ぐっと口を引きしめると、目を逸らすように地面を見つめた。
「学校にはこないクセに、こんなトコで何してんだよ?」
「次は何を盗むつもりなんだ、マンビキ」
 ツヨシはそれには答えずに、ちらっと腕時計を見た。仮面ライダーのロゴが付いた腕時計だ。針は12時25分を指している。いつもの学校が終わる時間ではなかったが、何か予定に変更があったのだろう。家庭訪問をする週だったかもしれない。クラスメートに会う事はないと思っていたツヨシは、動揺しながら駅の方向へ目を向けた。
 道路の先に、とき子がいるのを見つけた。待ち合わせの時間は12時半だった。
 自分を見るとき子の視線を感じて、ツヨシはまた顔を地面に向けてしまった。
「コイツ、花なんか持ってるぜ。デートじゃね?」
「だれが、こんなヤツとつき合うってんだよ。コイツ、ドロボーだぜ、ドロボー」
 ツヨシは小さな花束を手にしていた。女性好みの鮮やかな色彩がちりばめられている。花束を背中に隠すと、下を向いたままツヨシが言った。
「君たちは、僕には勝てない……」
「はぁ? ナニ言ってんだ、お前」
 3人の中でも一番背の小さい少年が、ツヨシの手から花を取り上げようと近づいてきた。
 それに気づいたツヨシは、花束を持っていない方の手を正拳突きの様に突き出した。胸元に繰り出された拳を見て、少年は動きを止めた。
 顔を上げたツヨシが、目の前の少年を真っ直ぐに見つめた。
「僕は、生まれ変わったんだ。―――悪の軍団に操られていた正義の味方は、悪事をはたらいたとしても、最後には生まれ変わって、悪をたおすんだ」
「えー、マジ? コイツ、アタマおかしくなってんじゃん!」
 他のふたりが、背の低い少年に同意するように笑った。
「僕は、僕自身に勝ったんだ。だから、もう、誰も僕をたおすことなんて、できないんだ! つづきは学校でやってあげるよ。だから、はやくいなくなってくれ!」
 3人は何かを言いかけたが、ツヨシの背後に目を向けると、そのまま口を閉じてしまった。それに気づいたツヨシが後ろを振り返ると、少し離れた所から、とき子が3人を睨みつけていた。
「あ……」
 ツヨシも、とき子の迫力に驚いて、2歩ほど後ろへ下がってしまった。
 背の低い少年が黙ったまま自転車を漕ぎ始めると、他のふたりも後を追うように転車を走らせて行ってしまった。
 ツヨシは大きく深呼吸をすると、
「こ、こんにちは……」
 と、会釈した。
 とき子は、一転して柔らかい表情を見せると、
「今日は、お招きいただいて有難うございます」
 と、頭を下げた。
 恐縮したツヨシが、深々と頭を下げる。
 久しぶりに会うとき子は、まるで別人のように感じられて、安心感と同時に親近感を覚える存在に変わっていた。だが、自分のしでかした罪の事を、相手が既に承知しているという事実が、ツヨシの胸をざわつかせてもいた。しかし、それはとき子も同じ事で、肩肘を張って生きてきた自分の人生が、子供を捨てたという過去のせいだと知られているというのは、たとえ相手が子供であっても、まるで裸を見られているかのような恥ずかしさを感じるのだった。
「あの……、お財布の事は……」
「もう、いいのよ。お願いだから、謝らないで。私こそ、あなたに謝らなくてはいけないわね。私のとった無礼な態度を、許してもらえるかしら」
「い、いえ、そんな、僕なんかに謝るなんて……」
 ツヨシは、顔を真っ赤にして眼を泳がせている。そんなツヨシを見るとき子の顔は、慈愛に満ちていた。
 お互いの顔を見合っている内に、次第にふたりの顔に笑顔が浮かんできた。
 ツヨシが何も言わずに、大きく頭を下げた。そこには、礼ではなく、明らかに謝罪の意味が込められていた。
「あら、ずるいわね。それに、結構な頑固者。少し見直したわ」
 ツヨシが照れ笑いをした。
 とき子の花束と自分の花束を見比べたツヨシは、「麗奈さんを思う気持ちでは、負けてませんから」と真顔で言うと、とき子が噴き出して大きな笑い声を上げた。
「アンタ、けっこう面白い子だったのね。気に入ったわ」
 ツヨシも笑顔になって坂を見上げると、
「さぁ、行きましょう」
 と、とき子に向かって手を差し出した。
「今日は、上の公園に着くまで、止まらずに手を引かせてもらいます」
 差し出されたツヨシの手を見ながら、とき子は軽いめまい感じていた。悲しみと喜びの渦が、とき子の心を揺さぶっている。なぜなら、まるでそこに孫の麗奈が立っているかの様な錯覚を覚えたからだ。
 麗奈もまた、毎回とき子の手を引いてこの坂を上る手助けをしてくれていた。麗奈は、断られても絶対に止めようとしなかった。しかし最初こそ断ったものの、孫に手を引かれながら一緒に道を歩くことは、とき子にとっては夢のような時間でもあった。
 とき子は、強張っている顔の筋肉をどうにか緩めると、
「では、お願いするわね」
 と、ツヨシの手を取った。
 
 とき子は、先程駅ナカで買ったショートケーキを、ツヨシが嫌いでなければいいなと思いながら、ツヨシに手を引かれている。念のために、財布の中に入っていた麗奈の写真のコピーも用意してきていた。
 ツヨシは、手をつけてはいけないと両親にきつく言われていた貯金を引き出して、麗奈の母親のコンサートチケットを2枚購入していた。公園でのお参りが済んだら、とき子に1枚渡すつもりでいる。
 これからのふたりの長い付き合いを象徴するように、ふたりは長い坂をゆっくりと自分たちのペースで上り続けて行った。

(Chapter 17-1へ つづく)

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「銀座コージーコーナー」と「御菓子司 日本橋屋」は、このように並んでいます。

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駅の改札口を出てすぐに見える「リトルマーメイド」と、その他たくさんのお店が並ぶ通路。左奥には「日本橋屋」が見えます。

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アコルデ代々木上原の北口出口です。奥に「バーガーキング」の看板が見えます。改装前は、同じ場所に「マクドナルド」がありました。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第36回 Chapter 17-1

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Chapter 17-1

 アブソルート代々木上原探偵事務所には、久しぶりに穏やかな空気が流れていた。昼過ぎのけだるい陽気と、生温かい室内の空気が眠気を誘う。
 塩沢は、ソファに深く腰をかけながらコーヒーカップを手にしている。姿見に映っている自分の顔をぼんやりと見つめていた。それとは正反対に、油井は艶々とした血色の好い顔に、丸い目をキラキラと輝かせながらネットショッピングにいそしんでいる。
 油井が突然、天を仰ぎながら右手で顔を覆った。
「やっちまった……。また、やっちまったよ、シオリン……」
 塩沢は怪訝そうに油井を見たが、次に出てくる油井の言葉を予想してか、特に声をかける様子はない。
「……買っちまったよ。今度は、バイクを買っちまった。ホンダのCB750。1970年式で80万! コレで俺も『ナナハンライダー』だぜー!」
「バイクって……、お前、免許持ってないだろ? それに、買ったばかりのロードバイクは、どうしたんだよ?」
 油井が塩沢に向かってワザとらしく呆れ顔を作ると、「分かってないねぇ」と頭を左右に振った。
「あっちは運動。こっちは趣味。別次元の話なんだよねー。免許を取るのも、趣味のためと思えば、頑張れるっしょ」
「……で、支払いは?」
「キャッシュとローン、どっちがいいかな?」
 ニヤニヤと下品な笑みを浮かべて、油井がデスク下のカギ付きキャビネットから大量の札束を取り出した。最初の報酬に追加の報酬を足した、計100万円分の札束だ。
「たぶん、ローンの方が、いいと思うぞ」
 塩沢がひとつ咳払いをしてから答えた。
 姿見を覗き込んだ油井は、
「あ、そう? でも、もうおっそいんだな、コレが。実は、今日の午後には、埼玉からバイクが届けられちゃうんだわ。現金特価で送料分値引きしてもらっちゃってるしねー」
 と、誰に向かってか分からない、謎のガッツポーズをしてみせた。
「あ、そうそう。『ライダー』といえば、徳田から聞いた、あの話?」
 油井に冷ややかな目を向けていた塩沢だが、「徳田」の名前に反応して、興味を示す顔になった。
「……何の話か、さっぱりだが」
「あの坊や、意外や意外、なかなか鋭いぜ」
「……?」
「だから、お前が変装した『仮面ライダー』だよ。アレが、実はお前だったって事、バレたかもしんないんだよ」
 鏡の中の塩沢の表情が少し強張った。ソファの背もたれから体を起こすと、改めて油井に顔を向けた。
「それは、確かなのか……?」
「徳田が言うには、お前の解説動画を見終わった後に、あの坊やが『この人、僕の家に来た仮面ライダーと同じ人かもしれない』って言ったんだと。なぜそう思うんだって徳田が聞いたら、『ハッキリとした理由はないけど、雰囲気が似てる』んだとさ。子供の直観力って、けっこうスゴイよな」
「そうか……」
 塩沢が視線を鏡の中に戻した。その表情に戸惑いや深刻な様子はない。だが、思案顔で自分の顔を見つめている。
「でも、まるっきりの失敗ってわけでもないみたいだぜ。徳田はイエスともノーとも言わなかったらしいけど、あの子、意外に晴れ晴れとしてて、お前の仮面ライダーが偽物だったとしても、特に恨む気持ちも無いらしい。なんか達観したというか、急に成長したみたいだったってさ」
 塩沢は、一瞬安堵の表情を見せたものの、すぐにまた考え込む顔つきに戻った。
 ツヨシに変装がばれた事は、実はあまり気にはなっていなかった。実際には、分かってしまった方がいいのではないかという思いを抱きながら、あの動画撮影に取り掛かったからだ。テレビを見ながら習得した仮面ライダー役者の動きが抜けきれていなかったが、それを意識して消す努力はあえてしなかった。
 ツヨシから財布を取り戻すために、彼の愛する仮面ライダーを使ってウソをついたことには変わりがなかった。真実を知れば、ツヨシの心を傷つけるかもしれない。だが、部屋に侵入して財布を取り戻すのではなく、自主的に返しに来てほしかったのだ。ツヨシの心の成長をみて、少しずつ本当の事を悟らせる方法を考えてはいた。だが、自分が思っていたよりもツヨシが「大人」だった事に、ほっとしていた。
 しかし、それよりももっと深刻な問題があった。その事が、塩沢の気持ちを多少重くさせていた。

(Chapter 17-2へ つづく)

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過去の作品が電子書籍として読めるようになっていますが、。平成生まれの人たちには、こういう作品はどう映っているんでしょうね。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第37回 Chapter 17-2

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Chapter 17-2

 とき子とツヨシが、代々木大山公園に「お参り」に行った日の事だった。
 徳田がとき子への手紙をツヨシから渡されたと聞いて以来、塩沢は缶入りのミルクティーを啜りながら代々木大山公園で日向ぼっこをする日が続いた。事件の顛末を知ったツヨシが、とき子をまた代々木上原の町へ誘い出してくれるかもしれないという期待を抱いていたのだ。
 その甲斐あって、数日後にとき子とツヨシが公園に現れると、塩沢が目をつけていた花壇の前にふたりがやってきた。塩沢は音をたてないように気をつけながら、近くでふたりの様子を窺っていた。
 ふたりが前にしている花壇は、公園内にもとからある花壇ではなく、とき子と孫の麗奈が作った物だった。その花壇は、公園の周囲を囲うように植えられている木々の一画にあり、それも一番目立たない場所にひっそりと作られている。許可なく作られた花壇だという事もあるが、塩沢にはどことなくとき子と麗奈の関係を象徴しているように思えた。
 ツヨシは知る由もなかったが、とき子がこの公園に来たのは、麗奈が亡くなった事を知った日以来、今日が初めてだった。花壇の花は、当然枯れてしまっているはずだった。しかし、花壇の中には、麗奈が好きだったスズラン、ペチュニア、マリーゴールドなどが植えられている。それらの花はとき子と麗奈が植えた物とは別の種類の花で、定期的に手入れがされている様子があった。
 とき子は、複雑な胸中を顔に出さない様に注意をしながら花壇の前に花束を添えると、ツヨシもそれに続いた。
 とき子とツヨシが並んでいる光景は、塩沢にある種の達成感と満足感を与えた。それは油井とこの地に探偵事務所を開いて以来、初めて抱く感情だった。
 仕事に対するプライドなど最初からなく、任された仕事をこなすだけの日々。浮気調査などで知った依頼人たちのその後の人生など、塩沢にとってはどうでもいい事で、取りあえず生きて行く事に不自由しない程度の報酬が貰えればよく、油井からも、依頼人からもそれ以上の見返りを期待した事はなかった。
 だが、今初めてこの仕事をやっていて良かったと思えたのだ。彼らの姿をこうして見ているこの時間や、この空間を共有できる事こそが、塩沢にとって一番の褒美のように感じられた。
 感傷的になっていたからかもしれない。とき子が用意してきた麗奈の写真を花壇に立てかけ、それを見たツヨシが言った言葉が、塩沢の心を震わせた。
「僕は、君を陰から見ていただけの自分がきらいです。なんで勇気を出して、君ともっと話をしなかったんだろうって、後悔をしていました。でも、君と一緒にいられた時間はもう戻ってこないし、これから二度と作られる事もありません。そう思うと、あの時の思い出がとても愛おしくて、とても大切に感じられるようになりました。
 僕はまだ子供で、将来どうなるかなんてぜんぜん分からないけど、君がいてくれたことが、今の僕と、これからの僕を作ってくれるんだと思っています。君に聞こえるかどうかわからないけど、約束します。僕はだれにも負けない、つよい人間になります。いつか、君が生まれ変わって、また僕の前に現れた時に、自信を持って話しかけられるようなりたいから……。だから、ありがとう。……さようなら……」
 麗奈の写真にほほ笑みかけているツヨシの笑顔が、まるで天使のように塩沢には映った。
 ふいに塩沢の目から涙がこぼれた。
 アメリカのどこかにいる時子を思い出していた。だが、もう時子の笑顔は覚えていない。
<大人の自分が、子供に負けている>
 塩沢は心の中で苦笑していた。
 今の塩沢を時子が見たら、絶対に自分を叱るだろうと思った。だが、嬉しさと悔しさが混ざり合った温かい涙を頬に感じていると、過去の苦い思い出が少しだけ薄れていくような気がして、もうしばらくこのままでいたいと思った。
 とき子が、隣に立つツヨシを抱き寄せた。とき子の目も涙で濡れていた。孫の友達というよりも、自分と秘密を共有する仲間であり、古くからの友達から力を分けてもらっているかのように、とき子はツヨシの肩を抱いている。
 目を閉じてうつむいていた塩沢が、ふと視線を感じて顔を上げると、ツヨシが自分の方を見ていることに気がついた。見えるはずのない自分を、ツヨシが真っ直ぐに見つめている。
 塩沢は困惑しながら周囲を見回した。だが、確認する術がない。
 ふいに転がってきたボールが、塩沢の足に当たった。そのボールを追いかけてきた幼女が、塩沢ににっこりとほほ笑むと、ボールを拾ってまた走り去った。
<見えている……。俺の姿が、人に見られている……>
 塩沢は、慌てて踵を返すと、急いで公園を後にした。
 ツヨシが自分に向かって小さく頭を下げる姿が見えたが、返事をする余裕はなかった。
 裏道を通りながら事務所に戻った。事務所に入るためには、数メートルだが商店街を通らなくてはならない。胸の鼓動が体中の穴という穴から飛び出して、外に聞こえてしまうのではないかいう錯覚を覚えていた。
 商店街に入った途端、塩沢は突然大声を上げた。抑圧された感情を吐き出したかったのと同時に、もう一度確認をしたかったのだ。
 通行人たちは、一斉に塩沢の隣にいた若いカップルを見た。恋人である若い女も、怪訝そうに自分のボーイフレンドを見上げていた。若い男は、訳が分からないまま自分を見ている周囲の人々に手を振って、自分ではないとアピールし始めた。
 塩沢の姿は、再び世界から消えて、「透明人間」に戻ってしまったようだった。だが、塩沢は落胆しつつも、安堵していた。
<情けない奴だ、ホントに……>
 そんな自分に抵抗するもう一人の自分の存在を確認しつつ、塩沢は心の平穏を求めて事務所のドアを開いた。

* * *

(Chapter 17-3へ つづく)

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「代々木大山公園」が近くにあるっていうのは、ホントに羨ましいです。代々木公園も近いし、素晴らしい住環境です。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第38回 Chapter 17-3

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Chapter 17-3

「あの婆さん、孫とは会う事が出来たけど、結局、自分の娘とは会う事が出来なかったんだな。淋しい話じゃないか。孫を通して、自分を憎んでいる娘との再会も望んでたんだろうしな」
 自分を見つめるツヨシの目を思い出していた塩沢は、油井の発言を聞き逃して、
「悪い。今なんか言ったか?」
 と、間の抜けた表情で聞き返した。
「……お前ね。俺の言葉を聞き逃しただけじゃなくて、俺の優しい心まで見逃したんだよ、お前は。俺だってね、依頼人の人生に思いをはせる事もあるんですよ。依頼人が札束にしか見えない時もある。それは事実だ。事実だけど、それはホントに資金繰りがヤバイ時だけで、本当は、俺は心の優しい人間なんだって分かってくれてる?」
 塩沢が油井に向かってほほ笑むと、
「ああ、知ってるさ」
 と、答えた。
 鏡の中に映る塩沢の横顔を見ていた油井は、急に照れたように視線を外すと、イスを回転させながら「俺は完全無欠のスーパーマン。背が低いのが玉にきずー」と歌いだした。その後の歌詞が思いつかないのか、ハミングをしながらPC画面を眺めていたが、
「あの婆さん、娘さんとは会いたくないのかね。なんなら、ウチでお膳立てしてやってもいいんだけどねぇ」
 と、言い方を変えてさっきの発言を繰り返した。
「あのふたりは、いつか仲直りできるさ」
 塩沢が断言に近い口調で答えた。
 油井は、懐疑的に姿見を覗き込んだ。
「ホントかー? そりゃあ、あの坊やに会いに来れば、偶然町で娘さんと会う事があるかもしれないけどさ。だからと言って、すぐに仲直り、って訳にはいかないだろう。ムズかしいと思うぜ。なんせ、長年の恨みだからな。まぁ、しかしだ。俺たちが手伝えば、仲直りのチャンスもぐっと高くなるだろうし、知らない仲じゃないんで、サービス価格でやりますって、話してみない? どう?」
「その必要はないな」
「おっ、なんだ、なんだ。また、『それは探偵の仕事ではない』とか、言うつもりか?」
「いや、違う。―――本田さんは、片瀬さんが町に来ている事は知っている。そして、片瀬さんも本田さんと会って話したい気持ちはある。後は、本田さんの気持ち次第、という事だ」
「はぁ? 婆さんは娘さんの姿を見かける度に隠れてたんだろ? なんで、婆さんが町に来てることを知ってるんだよ」
 塩沢が紅茶をひと口飲んでから、油井を見た。
「自分の事をお母さんには内緒にしておいて欲しいという老人と、聡明な子供が仲良くなれると思うか?」
「……質問の意図が、よくつかめませんが」
 油井が憮然としながら言った。
「片瀬さんは、孫の麗奈さんと仲良くなりたくて必死だったと思う。だが、自分の事を内緒にしておいてほしいなどと言うと、麗奈さんに警戒心を抱かせてしまう。最初から『秘密の花壇』を一緒に作っていれば、『共犯者』として片瀬さんの事を家族に話さないように約束させる事は出来たかもしれない。だが、たぶん片瀬さんは麗奈さんに口止めをしないまま、次に会う約束をしたんじゃないだろうか。そして麗奈さんは、知らないお婆さんと友達になった事を、本田さんに話してしまった。
 得体のしれない人物が大事な娘に近づいてくれば、親として警戒するのは当然だ。後日、本田さんは麗奈さんを探しに公園へ出かけながら、自分の目でその人物を確認しようとしたのではないだろうか。そこで、本田さんは、麗奈さんが自分を捨てた母親と一緒にいる姿を見てしまったのだろう。その時のショックは相当なものだったと想像するが、しかし、本田さんは『あのお婆さんとは二度と会ってはいけない』と、娘には言わなかった……」
「なんでだよ」
「なんでだろうな」
「なんだ、それ。分らないなら、分からないって、素直に言えよな」
 油井が文句を言いながらも、どこか嬉しそうに目を細めた。
「まぁ、人の心の動きが手に取る様に分かったら、諍いも、犯罪もかなり減るだろうな。だが、まずそんな人間はいないし、俺は……、むろん違う。だが、見聞きしたことから推理する事は出来る。それに、ヒントもある。それが、『秘密の花壇』だ」
 油井が両手をデスクの上で組むと、眠そうな表情で言う。
「……俺はもう口挟まないからさ、さっさと教えてくんない? 今日は推理合戦する気分じゃないし」
「いや、もったいをつけているつもりではないんだか……」
「十分、やってます、ハイ」
「では……」
 塩沢は、ひとつ咳払いをしてから答えた。
「枯れていたはずの花壇を植え変えたのは、たぶん本田さんだ。麗奈さんの死後、半年以上放っておいた花壇に手を入れたんだ。麗奈さんの思い出の場所を失いたくなかったからかもしれない。しかし、だからといって、自分が憎んでいる母親が関係している花壇を植え直すというのは、彼女の中に大きな変化があった事を表わしている。それも、ポジティブな方向に、だ。まだまだ時間は掛かるかもしれない。だが、今の片瀬さんには、ツヨシ君がついている。これからは、彼が片瀬さんを本田さんのもとへ導いてくれるさ」
 油井は、腕組みをしながらまったりとした表情で塩沢を見ていた。
「俺は、お前をパートナーに持ててホント幸せだよ。『名探偵』ぶりも板についてきたしな。お前が『透明人間』を卒業しても、このまま探偵稼業は続けていけそうだ。ま、その日が来るまでは、スクープ写真の仕事続けてくれよな。よろしく頼むわ」
 全く嬉しくもなさそうに油井が言うと、再びPCで芸能情報をチェックし始めた。
 塩沢は少し照れて顔を赤くしていたが、肩をすくめてから紅茶をもうひと口啜った。
 紅茶を飲み干すと、PCモニターを見つめている油井の顔を見て、小さくため息をついた。
「そう言えば、まだ小山内響子のスクープ写真、見せてもらってないぞ。室田さんには、間違いなく送ってくれてるよな」
「ああ、送ってある」
 <一応な>とは続けずに、塩沢は席を立って、代々木上原商店街へ下りていった。

(Chapter 18<エピローグ>へ つづく)

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この作品の主人公が飲んでいる紅茶の種類は、「イングリッシュ・ブレックファスト・ティー」か、「アールグレイ」をイメージしています。なぜか作中で言及するのを忘れていました。自己満足に過ぎませんが、いつか「改訂版」として、作り直したいと思っています。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「犯罪の無い町の小さな犯罪」 第39回 Chapter 18 最終回

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Chapter 18 <エピローグ>

 室田から依頼された小山内響子のスクープ写真が、世に出る事はなかった。もともと、そんな写真など存在しなかったのだ。油井がその事実を知ったのは、バイクの支払いを終えた翌日の早朝、6時過ぎだった。
 携帯電話がうるさく鳴り響く中、油井は「室田さん」という名前を携帯のスクリーンに見つけると、我慢しながら電話に出た。昨夜は塩沢と「まんぷく」で祝杯を上げた後、1人で「青」や「BAR NAKAGAWA」で二次会と三次会を続けたので、ベッドに入ったのは、深夜3時頃だった。室田からの「感謝の言葉」を期待して出たが、室田の声には怒気が含まれていて、寝起きに聞く声としては最悪の部類だった。
 曜日と時間毎にフォルダ分けされた小山内響子の写真が大量に送られてはきたが、そのどれにもバーで飲酒をしている様子は写っていなかったというのだ。「West Park Café」、「ファイヤーキングカフェ」、「Casa Vecchia」、「エンボカ東京」、「吉田風中国家庭料理jeeten」などの飲食店で食事をしている姿だけで、小山内響子のファンが隠し撮りをしたレベルの写真でしかなかった。
 今後の仕事の依頼は見合わせるとの言葉を最後に、電話は切れた。
「塩沢ーッ!」
 油井はベッドから跳ね起きると、身支度を始めるために下の事務所へ降りていった。
 
 いつものように町を散歩してから出勤してきた塩沢が、紳士然としたポーズでデスクチェアに座りながら、真顔でじっとドアの辺りを見つめている油井を見つけて、眉をひそめた。塩沢は、「おはよう」とだけ挨拶をしてドアを閉めた。
 お気に入りの光沢のあるシルバーのテーラードジャケットを着込んだ油井は、塩沢がいる辺りにほほ笑みかけると、質問を装った苦情を開始した。
「おはよう、シオリン。朝から申し訳ないんだが、ひとつ質問がある。あのスクープ写真の仕事、『完了した』って言ってなかったっけ?」
「……」
「でもね、室田さんから今朝電話があってね、送ってもらった写真には、要求された物と全く違う写真ばかりが入っていたって、お怒りなんだよね。どういうことか説明してくれるかな? いやいや、説明しなくても分かっているから、話さなくていいよ、うん。シオリンが仕事内容に不満がある事は、重々承知してるからね。でもさ、徳田の依頼を受けたのは、室田さんの仕事に支障がないから大丈夫って言う君の言葉を信じてのものだったからねぇ。それが順守されていないっていうのは、道義的におかしくないかなぁ? これって、俺たちの信頼関係にとって、大事な問題だと思わない? 俺は、シオリンを信頼していたよ。俺は、ね。で、君はどう思っているのかな、俺たちのこと。コンビ解消? お笑い芸人みたいに、仕事以外ではつき合わない関係になっちゃう? どうするよ。今回ばかりは、君に非があるからねぇ。君に反論の余地ないよね? どうだ。なんか言ってみろよ。反論なんか出来ねーだろ!」 
 塩沢は、「なんだ、そのことか」と言うと、それ以上は答えずに、すぐに紅茶を入れる準備に取り掛かった。
 期待していたのとはま逆の反応を見て、赤くなっていた油井の顔がさらに赤味を増した。
「あのね、人が大事な話をしているのに、『なんだ、そのことか』は、ないっしょ! ええ?」
「結果的に仕事にならなかった事は、残念だったと思う。それに、俺も言葉が足りなかったようだ。なので、一応謝っておく。悪かった」
 鏡の中に映る塩沢の表情に、言葉ほどの反省の色は無い。
「『残念』ってのはなんだ! 自分が約束を破っておいて、『残念だった』なんてよく言えたな! 残念なのは稼ぎが無くなってこまる俺たちの今後だ! いや、ハッキリ言う! あの『ナナハン』の返品はきかないんだぞー! どうしてくれるんだよ!!」
 と、鏡に向かってむなしく叫んだ。
「それは、困ったな。―――俺は、これ以上追及しても意味のない所まで行き着いたので、仕事は終了、と言う意味で言ったんだがな。送った写真は、単なる結果報告の意味で、添付した書類には詳しく説明してあったんだがなぁ。『当然ある』と思い込んでいた物が見つからないので、室田さん、よく確認もせずに電話をしてきたんじゃないか? それとも、入校の期限が過ぎていたので、色々と慌てていたのかな?」
「『かな?』、じゃねーだろ! じゃあ、その事情とやらをちゃんと説明してもらじゃねーの!」
 油井が姿見の中の塩沢を睨みつけた。
 塩沢が残念という風に首を振りながら、
「小山内響子、彼女、上原でのバー通いを止めたんだよ」
「はい……?」
「灯台もと暮らしだな、油井。下の不動産屋の社長と、毎日顔を合わせていたんじゃないのか? 五味翔太っていうアイドルがいるだろ? 小山内響子とつき合っている奴だ。あいつが、先月『富ヶ谷スプリングス』って物件に入居したんだよ。それも、下で借りたはずだぞ。で、あいつが小山内響子を最初にバーに誘った犯人だ。ヤツは22だからいいが、無責任極まりない話だ。とりあえず、世間の目を気にしてか、小山内響子はバー通いは止めて、五味の部屋で飲むことにしたんだ。だから、バーで飲んでいる写真が撮れなかったというわけだ」
 油井の丸い目がクルクルと忙しく動き回る。
「じゃ、じゃあ、五味の部屋で酒を飲んでいる写真を……」
 塩沢が鏡の中から油井を睨んだ。
「そんな写真は、依頼されていない。あくまでも、『バーで酒を飲む小山内響子』の写真だろ? 俺らの仕事にだって線引きは必要だ。未成年のアイドルのあられもない姿の写真だって撮る事は可能だが、俺がそんなことをすると思うか?」
 油井が大きく深呼吸をしてから、態度を一変させた。
「いや、わかった、わかった。ごもっともだよな。うんうん。俺的には、そういう写真は嫌いじゃないが、まぁお前には頼めないよな。じゃあ、飲酒はナシだ。代わりに2人一緒のところを押さえてくれ。室田さんに仕事もらえなくなると困るんだよ。な、頼む!」
「残念だが、それも無理だな。ふたりはもう別れているはずだ。五味側の事務所が、無理矢理ふたりを別れさせようとしているとかで、その話がもとで大げんかをしている姿を見たんでな。かなりヒドイ捨て台詞を吐いて、小山内響子がヒールで五味翔太の股間に蹴りを入れていた。復縁は、まずあり得ないだろうな」
「そ、そんなオイシイ場面が! で、その写真を、お前は……」
「……いや、撮ってない。悪いな」
「オーマイガーッ!」
 油井は、塩沢の両肩を掴む代わりに、姿見を両手で掴んで、グラグラと前後に揺らした。
 鏡に映る醜く歪んだ自分の顔を見つけると、手を放してそのままヨロヨロと後ろ足で下がりながらソファに座りこんでしまった。
「くそっ、仕事が、仕事が、なくなっちまう……」
 急いで携帯電話をジャケットの内ポケットから取り出すと、じっと睨みつけた。
「しょーがねぇ。その『別れ話』の目撃談だけでも、使ってもらうか……」
 油井が電話をかけようとした瞬間、ドアをノックする音がした。控えめなノックだった。
 鏡の中の塩沢と目配せをすると、油井はソファから急いで立ち上がって姿見を布で覆った。
「どうぞ!」
 油井がドアを開けた。
 ドアの向こうに立っていたのは、20代後半の美しい女だった。
 さっきまでの険しい表情が消し飛んで、油井の顔にさわやかな笑みが浮かぶ。
「アブソルート代々木上原探偵事務所へようこそ!」
 油井が女を中へ招きいれようと室内を振りかえった。なぜか姿見に掛けたはずの布が床に落ちていた。姿見は、まるで部屋に入ってきた依頼人が自分自身と向き合うために存在しているかのように、入り口を向いている。
 事務所に足を踏み入れた女は、鏡に気づくと足を止めた。
 慌てて姿見をどかそうとした油井の耳元に、塩沢が囁いた。
「大事なのは、見掛けじゃなくて中身だ。仕事も中身で選んでくれよ」
「俺は美人の頼みなら、ふたつ返事で聞くんだよ。悪いか」
 女が驚いて油井を振り返った。
「いや、失礼しました。上にいる私の相棒と話をしてたんで、ハイ……」
 恐縮しながら急いでドアを閉めた。
「さぁ、さぁ、そこのソファにお掛け下さい」
 油井は自信に満ちた表情を作って、女を真っ直ぐに見詰めた。
「ウチの調査員の調査能力は、天下一品です。依頼主のご期待には必ず答えます。私の個人的な頼みはあまり聞いてくれないのが、玉に瑕ですが……。さぁ、では、お話を伺いましょうか」

 花市場がある十字路に立ちながら、塩沢は道行く人々を見ていた。
 物言わぬ花との会話は、もう終わろうとしていた。
 自分の中に吹く変化の風を感じながら、塩沢はまた歩き始めた。


                         <了>


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「BAR NAKAGAWA」

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「青」

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「音楽村通り」

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「Fireking Cafe」

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「Casa Vecchia」

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「en boca 東京」

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「en boca 東京」看板

ホント、代々木上原っていい町ですね。

「犯罪のない町の小さな犯罪」のあとがき、または追記のようなもの

 今この文章を読まれている方、たぶん本篇をお読みいただけたと思いますので、お礼を申し上げます。私の拙い小説をお読みくださいまして、誠にありがとうございました。
 以下の文章は、この作品の注釈や、フィクション部分と現実との相違点などについての説明となります。よろしかったら、お付き合いください。

 まず、この作品の制作中に大きな変化がありました。それは、スーパー「パルケ」が無くなってしまった事です。店が入っていたビルの建て替えのためという事ですが、パルケが今後戻って来る予定はないそうです。非常に残念です。坂の上という事で、使う頻度はそれほどでもなかったのですが、昨年からドリンク類の安さに魅かれて利用する回数も増え、パルケ寄りになってきていた矢先の話だったので、ちょっとショックでした。
 作中に仮面ライダーの「食玩」をパルケで万引きをするシーンがありましたが、実際には仮面ライダーの「食玩」の取り扱いはありませんでした。セブンイレブンなどではよく見かけますが、パルケを紹介したくて設定を変えました。一時期、仮面ライダー好きの私の子供たちに、よくセブンイレブンで買わされました。しかし、おもちゃメーカーの指示か、必要以上に(会社側の利益を考えれば「必要」になるのでしょうが)種類を多くするので、キリがありません。でも、子供たちが喜ぶんですよねぇ。

 「犯罪のない町」というタイトルにも使われているフレーズですが、これはもちろん、私の個人的な印象および、一般的な認識から付けたもので、犯罪率がかなり低い町ではありますが、全く無い、というとウソになります。人が多く集まる所には、必然的にトラブルが生まれ、バーや居酒屋が多数あれば、酔った人たちによる騒動も起こるものです。しかし、代々木上原は渋谷駅周辺や新宿などの繁華街とは違いますし、集まる人の層も違います。空き巣被害などが起こることもあるようですが、それでもやはりこの町は他に比べても平和な町の部類に入ると思います。

 作中の仮面ライダーは私の創作ですが、もともとは「仮面ライダーメサイヤ」という名前を用意していました。しかし、「もしや」と思いその名をネットで検索してみたら、すでに同じように架空の仮面ライダーの漫画を描いている方がいたのと、それ以外にしっくりくる名前が思いつかなかったので、ただの「仮面ライダー」という名前にしました。
 この仮面ライダー(メサイヤ)の世界を、主人公の塩沢にもっと説明させるつもりでしたが、自己満足に過ぎないことと、塩沢というキャラクターに合わないと考えて止めました。キリスト教の仮面ライダー、ユダヤ教の仮面ライダー、仏教の仮面ライダーなど、色々な宗教の「神様」である仮面ライダー達が「宗教戦争」をするというシュールな話でした。
 
 警察官徳田がツヨシ少年に勧めた「昆虫キャンディー」も創作です。ツヨシが徳田と会った際に、「あれって、お巡りさんが考えたウソのお菓子でしょ?」と確認するシーンが入る予定でしたが、カットしました。個人的には虫を食べたくはありませんが、一部では注目されている「食材」ですし、将来的に昆虫食がもっと世に出てくる可能性はありそうです。
 また、古賀政男記念館でのリサイタルの話も筆者の創作です。こんなコンサートがあったら面白そうだな、とは思いますが、どうでしょうか。
 後、代々木大山公園に勝手に花を植えるのは、やはりダメだと思います……。

 結果的に完結までに、約半年も掛かってしまいました。ブログ小説というものを未だに良く分かっていないので、もっとサクッと読めるようにした方がいいのではないかと思い、情景描写などはかなり省いたのですが、それでも予定より二カ月ほど長くなり、短編の予定が中編になってしまいました(いや、これでも短編かもしれませんが)。最後の方は、いつもなら途中で分ける長さになっても、そのまま載せてしまいました。一回で読むには長すぎると感じられたかもしれません。申し訳ありませんでした。
 次の話は、三分の一くらいの長さの短編にしたいと思っています。書き出すと長くなる癖があるので実際はどうなるかわかりませんが、もしよろしければ引き続きお読みいただけると幸いです。

髙田健史

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