- 2012年12月 8日 15:19
- 「犯罪のない町の小さな犯罪」
Chapter 1-1
「やっぱり女性の1人暮しって、不安じゃないですかぁ」
小奇麗な格好をした20代前半の女が、探るような目で隣を歩く男に言った。
「いや、この代々木上原って町は、かなり治安良いですよ。僕がここで仕事し始めてからですけど、今まで事件らしい事件って起きたこと無いですから。あったとしても、ホント、まれですよ、マレ」
スリムタイプの背広を着たクリーンカットの男が、ファイルの束を片手に、隣を歩く若い女に爽やかな口調で話しかけた。2人は代々木上原駅前の商店街を歩いている。どうやら賃貸物件を案内中らしい。新しい町での生活に不安を抱いている客を安心させようとしているのだろう。不動産業者の男は笑顔を絶やさない。
「なんていうか、『高級』っていう町のイメージばかりが先行してるんですけど、町も人も人間味があるし、新宿、渋谷が自転車で通える距離なのに、治安は良いし、オアシス的な安心感があるんですよね。で、僕はここを勝手に、『犯罪の無い町』って呼んでるんです」
男は、これ以上爽やかになれないくらいの笑顔を見せた。
「へぇ、そうなんですか! この町にして良かったって気がしてきました」
若い女は安堵の表情を浮かべ、軽やかな足取で不動産業者の後をついて行く。
代々木上原駅には、小田急線と千代田線が乗り入れている。新宿発の小田急線急行の次の停車駅であり、千代田線本線の始発駅でもある。駅周辺には、山手通りや井の頭通りなどの交通量のある道路が徒歩圏内にあるが、周囲には緑が多く、町を通り抜けていく車の量がさほどでもないせいか、空気が淀んでいる感は全くない。前日の雨の湿気と新緑の匂いを含んだ春の風が、代々木上原駅前商店街の通りを流れている。
歩道に佇んでいた塩沢の鼻先を、不動産業者と女性客が通り過ぎて行った。塩沢は二人の会話を聞きながら、苦笑いを浮かべた。
<『犯罪の無い町』ね……>
塩沢は、15メートル先のビルの4階にある探偵事務所を見た。友人であり、また上司でもある油井が、ビルのオーナーから「興信所」や「探偵事務所」などの看板を出さないという条件で借りている小さな事務所だ。ビルの案内板には「(株)アブソルート代々木上原」とだけ出ていて、何の業種なのかさっぱり分からない。つい最近まで、「仕事がこない」とよくぼやいていた油井の姿を思い出して、塩沢は乾いた笑い声を上げた。
駅の方から歩いてきた中年女性が、怪訝そうに振り向くと、足を止めて塩沢の方を睨んだ。だがそれも一瞬の事で、不思議そうな表情を浮かべると小さく肩をすくめ、有名中華料理店の「jeeten」やロケ弁などで知られる「金兵衛」、近所に住む芸能人が来店する焼肉店の「まんぷく」などがある方向へ歩き始めた。
中年女性の視線を気に留める様子など微塵もみせず、塩沢はいつものように無表情に戻ると、1時間以上前からそうしていたように、花屋の店先の物言わぬ花たちを眺めながら、缶入りのミルクティーを啜った。
(Chapter 1-2へ つづく)
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