- 2012年12月15日 13:37
- 「犯罪のない町の小さな犯罪」
Chapter 1-4
「どこまで、ですか?」
少年は歯を食いしばりながら尋ねた。
「なんだい、助け舟を出しておいて、もう根をあげたのかい。だらしのない子だね」
「い、いや、そうじゃなくて、ただ…」
「タクシーだよ。上でタクシーを拾うんだ。まだ先は長いんだ。さぁ、もっと力を入れて引っ張っておくれ」
少年は、緊張と力仕事の両方で汗だくになっている。老婆も足を進めてはいるが、まだアコルデの入り口から10メートルほどしか進んでいない。
塩沢も老婆と少年の後をついていてきているが、観察しているばかりで、手を貸そうとはしない。
「タクシー、乗り場なら、駅前に、ありますよ。上で、いいんですか……?」
少年が息を切らせながら、遠慮がちに聞いた。
「お前は私を馬鹿にしてるのかい? そんな事は知ってるよ。私は、上でタクシーを拾いたいんだよ。分ったかい」
「……はい」
少年は腑に落ちない表情をしたが、老婆の鋭い視線に気づいて顔をそむけた。
アコルデから出てきた若いカップルが、2人を見かねて歩み寄ってきた。それに気づいた老婆がホッとため息をついた。少年も少なからず安堵の表情を見せた。だが、そのカップルは唐突に歩みを止めてしまった。
老婆と少年の目の斜め前に、半袖・短パン姿のスポーツウェアを着た外国人男性が立って、老婆と少年を見下ろしていた。顔が軽く上気し、うっすらと汗をかいている。どうやらランニング中に2人を見つけて寄って来たらしい
「ダイジョブ、デスカ?」
外国人男性は、老婆と少年に微笑みかけた。2人は何が起こっているのか分からない様子で、黙ったまま外国人男性を凝視している。
「オテツダイ、シマス」
その外国人男性は、おもむろに老婆の前で背を向けてかがむと、ヒョイと老婆を背負って歩き出した。少年があっけに取られている内に、外国人男性は坂をぐんぐん進んでいく。
一瞬の間をおいて、慌てて少年が追いかけた。老婆は、見ず知らずの外国人男性の背中で体を強張らせたまま、目を丸くしている。
「アナタハ、トテモ、エライデスネ」
外国人男性が、追いついた少年に流暢な日本語で話しかけた。少年は何を言ったらよいのか分からず、口を開けたまま、必死に付いて行く。
「大勝軒」やクスリの「セイジョー」越え、スーパー「パルケ ミオ」の前が坂の「頂上」になる。外国人男性は丁寧に老婆を自分の背から降ろすと、「マタネ」と軽く手を振り、2人が礼を言う間も与えずにジョギングを再開して行ってしまった。塩沢が老婆と少年に追いついた時には、外国人男性は道の先にある交差点を曲がって井の頭通りへ出ていくところだった。
硬直状態から回復した老婆は、はたと気づいて手にしていたハンドバッグに手を入れた。少年が困惑した表情のまま老婆を見た。
「チップだよ。こういう時はチップを渡すのがエチケットなんだよ。お前があの外人に渡しに行っておくれ」
「え? ぼ、僕ですか?」
「当たり前じゃないか。私が走れるように見えるのかい!」
少年は、外国人男性が進んだ先と老婆とを交互に見ていたが、とうとう困り果てて関係のないパルケの店内を茫然と見つめた。
一向に財布が見つからないのか、老婆はいつまでもバッグの中を探っている。少年もその様子に気づくと、心配そうに老婆を見た。
老婆は急に手の動きを止めると、「やられた!」と叫んだ。
「スリだよ! あの外人が財布を取ったんだ! 早く、早く追いかけて捕まえておくれ!」
「え……?」
少年は、外国人男性が消えていった先を見たが、足が動かない。
「何をしてるんだい! 私の財布が、大事な財布が取られたんだよ! 早くおいきよ!」
老婆と少年の周りに人が集まり出していた。中には「どっちに行ったの?」と老婆に聞いてから追いかけ出す若者もいた。
老婆の狼狽ぶりは尋常ではなく、さっきまであった威厳は霧散し、今はただの無力な老女にしか見えない。少年もまた、まるで自分が責められているかのように顔は真っ青になり、そのまま俯いて泣き出してしまった。
<事件、なのか?>
人の輪の外で、塩沢は老婆と少年を見続けていた。
(Chapter 2-1へ つづく)