- 2013年1月23日 16:02
- 「犯罪のない町の小さな犯罪」
Chapter 6
「まだ進展は、ないんですか?」
アブソルート探偵事務所の4階で、私服姿の徳田がソファに座りながら、自分が差し入れに持ってきた「haritts」のドーナツを頬張りながら聞いた。
徳田は不満顔ではなく、なんとなく気になるので聞いてみたという、まるで天気の話でもしているような表情だ。
油井はデスクの向こうでケータイメールを読みながら、「ああ」と曖昧な返事をした。
メールはスクープ屋の室田からのものだった。文面には「K.O.の写真、至急必要。3日以内。以後キャンセル。」と書かれている。油井は憂鬱な顔をして、窓から下の商店街を眺めた。
「あの子、また万引きしちゃいましてね。母親は半狂乱で怒りまくるし、あれじゃ、子供が可哀そうで、可哀そうで。俺、『お受験』ってしたことないんで分かんないんですけど。いろいろ大変なんでしょうね」
「さぁね。俺にも分からん世界だよ、実際」
油井は、不愉快そうに答えた。依頼人に「まだ?」と聞かれるのが嫌いな上に、目の前に浮いている札束が、底なし沼に徐々に沈み始めているような気分を味わっていた。
スマートフォンをいじくりながら、油井は塩沢に電話をしたい欲求と戦っていた。塩沢のケータイはバイブレーションのみの設定にしているとはいえ、調査中はむやみに電話をしない約束になっていた。いくら「透明人間」でも、ターゲットの目の前で突然バイブ音が鳴りだしては、大騒ぎになってしまう。
「外出禁止令が出されたそうなので、もう万引きはないと思うんですけどねぇ。で、俺、盗んだお菓子と同じ奴を『大人買い』して、家に届けに行ったんですけどね、もういらないって言うんですよ。母親に言わされてるって感じじゃなかったし、やっぱりストレスのせいで万引きをしたんですかね。俺、ストレスとは無縁の生活をしてきたんで、いまひとつピンとこないんですよ」
油井が憎々しげに徳田を見た。
「俺の日常ってさ、ストレスとの闘いなのよね。君によーく分かるように詳しく説明してあげてもいいんだけど、その前に着手金、払うように考え直してくれない? それで俺のストレスはスーッと消えていくんだけど。どうかな?」
「着手金って、分からなくはないんですけど、個人的には成功報酬プラス必要経費後払いっていうんなら、いいと思うんですよ。でも実際は、仕事に失敗しても、着手金は返ってこないって話じゃないですか。あ、油井さんのトコはどうしてるのか知らないですよ。でも、なんか気に入らないんですよね。個人的な感想で、ホント申し訳ないとは思うんですけど」
気持ちの悪い作り笑顔のまま、油井の顔が凍りついた。
「油井さんトコの調査員さん、塩沢さんでしたっけ? まだお会いしたこと無いですけど、優秀な人なんでしょ? 大丈夫ですよ。それに、ストレスフリーになっちゃうと、油井さんのストレスに関するレクチャーに熱が入らなくなっちゃうでしょ? これ、もう1つ貰いますね」
徳田が別のドーナツに手をのばす。
「へいへい。どいつもこいつも、まったく……」
ブツブツと小声で呟きながら油井がテーブル上のドーナツに手をのばしかけた時、油井のスマートフォンが軽快なマーチング・メロディを奏で始めた。油井はビックリしてドーナツを床に落としてしまい、あわてて拾おうとしたが、画面に「シオリン」と映し出されているのを見て、思わず立ち上がって電話を受けた。
「はいよ! ……うん、うん、は? 俺が? やなんだよフィールド系は。俺、子供苦手だし……。え? チョイ待てよ。余計な出費は勘弁しろよな。―――そりゃあ金は欲しいよ。でもさぁ……!」
油井が徳田を見た。徳田が興味深げに油井の様子を見ている。油井の目には、徳田がアタッシュケースに現金を入れて持ってきたビジネスマンの様に映っている。
「オーケイ、分かったよ。じゃあ、後で詳細を詰めよう。―――もう我慢できない。今日の晩飯は『まんぷく』だ。いいな!」
油井が話し終えると、徳田が目を輝かせて詰め寄ってきた。
「俺も、焼肉に参加してもいいですか? 塩沢さんにまだお会いしたことないんで。俺、奢りますよ」
ビックリした油井が、「うっ!」と妙な声を上げた。
「奢り、うーん、奢りかぁ……。いやぁ、実に魅力的なオファーだけど、ダメなんだよ。パートナーがね、人見知りが激しくって。他人が来ると逃げちゃうんだ……。残念だけど、ホンっトに残念だけど、ダメ、なんだよなぁ……」
「それで、よく調査員なんて出来ますね。不思議な人だなぁ」
「え、いや、『仕事人格』、ってのがあってね、まぁその二重人格って言うか……」
「わかりました。でも、その内、ちゃんと紹介してくださいね。じゃ、引き続きよろしく!」
徳田は、食べかけのドーナツを口に放り込むと、片手を上げて挨拶をし、事務所を後にした。
安堵のため息をついて、油井がデスクチェアに深く腰掛けた。
いつの間にか靴で踏みつけられていたドーナツが、デスクの下で粉々でなっていた。絨毯の中深くにドーナツの欠片が入り込んでいるのを見つけると、油井はノートパソコンを開いて、ハウスクリーニング業者のサイトを調べ始めた
(Chapter 7へ つづく)