- 2012年12月22日 16:53
- 「犯罪のない町の小さな犯罪」
Chapter 2-3
事務所の名称を決めたのは油井だった。「油井のアブラ」と「塩沢のソルト」で合わせて「アブソルート」というのがその名の由来だ。英語表記は”Absolute”で、「完全な」、「絶対的な物」という意味である。そして、油井の好きな酒の一つに「アブソルート・ウォッカ」という物があり、それがヒントにもなっていた。
2人は高校時代のクラスメートではあったが、学友ではあっても仲のいい「友人」とまではいかない間柄だった。表面的には飄々としていて、誰とでも仲良くなれるが、本当に仲が良くなるのは1人2人という塩沢は、基本的に個人主義だ。自分の風貌や体型を笑いに転化しながらも流行のファッションに身を包み、気のいいお調子者で通っていた油井とではほとんど接点が無かった。
ある日、浮浪者の様な風体でさまよっていた塩沢を、偶然街中で見かけた油井が声を掛けた。高校卒業後にアメリカ留学に行っていた塩沢が、10年後、完全に日本に引き揚げてきて1ヶ月経った頃のことだ。ほとんど付き合いのなかった油井が、どうして変わり果てた姿の塩沢を見分ける事が出来たのか、それは油井自身にも分からなかったが、今となっては「運命」だったと思っている。
そして、塩沢の特異体質に気づいた油井が、その異常さに驚きつつも、それを利用しようと思いついたのは、友人たちのコネや紹介のみで様々な仕事を渡り歩きつつも、結局は借金まみれになっていた自分への「贈り物」だと勝手に思い込んだからかもしれない。
「俺と探偵事務所をやらないか。もう名前も決めてあるんだ。俺とお前の名前、アブラと塩のソルトを合わせて『アブソルート探偵事務所』! イイだろ? お前のその特異体質を使えば、解決しない事件なんてない! 楽勝だよ、楽勝! 半年だけ俺がそこら辺の探偵事務所に勤めてノウハウを盗んでくるからさ。相棒になってくれよ。いいだろ?」
最初こそ強引だったが、その後は根気よく丁寧に塩沢を説得し続けた。しかし、埒が明かないと見るや、油井は一言も口をきかない日がある塩沢の口を開かせようと、ノンアルコールと騙して酒を飲ませ、塩沢の中に鬱積していた感情を吐露させることに成功した。それは、今の塩沢を作り出す原因となった心のキズの事であり、アメリカ時代に起こったある事件の話だった。
決して人には話すまいと心に決めて帰国してきたはずだった。だが実際は、一度でいいから話をしたい、話を聞いてもらいたいと思っていた自分がいたのかもしれない。自己嫌悪に陥りながらも、塩沢は後になってそう考え直した。
油井が自分を騙した事は許しがたい行為だと、塩沢はある種の絶縁状を出した。しかし、「人間」をやめて感情を失していた塩沢が、この事で「怒ること」を思い出し、感情を取り戻すきっかけにもなったことも事実だった。まともな食事を取り、たまには風呂にも入るようになり、そして他者との交流を再び取れるようにもなった。この奇妙な体質の原因を知る人物は、油井ただ一人であり、心の中では一応油井を「恩人」だと思っている。
結局、塩沢は半分投げやりな気持ちで、仕事の件を承諾した。変化を求めない自分と、それを求める自分とのせめぎ合いに疲れ果てた結果でもあった。
こうして「アブソルート探偵事務所」が設立された。油井と塩沢がもうじき27歳になろうとしていた2年半前の春のことだった。
(Chapter 3-1へ つづく)