- 2012年12月10日 10:00
- 「犯罪のない町の小さな犯罪」
Chapter 1-3
駅の北口には、タクシー乗り場とコミュニティーバスの「ハチ公バス」乗り場があり、代々木上原・渋谷駅間を走るこのルートは、「丘を越えてルート」と名付けられている。この名称は、古賀政男の曲名に由来している。代々木上原の観光名所のひとつでもある井の頭通り沿いの「古賀政男音楽博物館」を通って行くルートで、代々木上原駅から山手通りの富ヶ谷交差点までのアップダウンを「丘」と例えることもできる。
タクシー・バス乗り場のある駅前から、一方通行の道路をアコルデ沿いに進んでくると、老婆の立つ十字路に出る。この通りこそが、坂の町代々木上原の「谷底」である。坂を南にへれば井の頭通り。北へ上れば高級住宅の建ち並ぶ閑静な住宅街が現れる。この町の住人にとっては当たり前の光景でも、中高年、老人にはなかなかにキツい坂である。
老婆は十字路のほぼ中央に立ったまま、じっと坂を見続けている。その目は途方に暮れているのではなく、挑むような視線を坂に向けている。
この老婆に何があったのか、塩沢に少しだけ興味がわき始めていた。そして、そんな自分の心の動きを分析しようとして、すぐに止めた。すでに頭に穴が開く程さんざん自己分析を試みたものの、結局何ひとつとして答えは出なかったのだ。塩沢は、ただ老婆の次の行動にだけ注意を払うことにした。
老婆は自分に向かってクラクションを鳴らすタクシーに気づくと、鋭い一瞥を運転手に投げた。タクシーの運転手も、負けずにクラクションを鳴らし続ける。老婆は口をへの字に曲げると、三歩だけ前に進んだ。タクシーは故意とも仕方なくとも見えるハンドルさばきで、老婆の体に当たりそうになりながら脇を通り過ぎていった。
老婆はもう一つ大きなため息をついてから、神妙な表情を浮かべて自分が歩いてきた方向を見た。その視線の先に、ショッピングバッグを手にした小学校5年生くらいの男の子がいた。眼鏡をかけた線の細い少年で、「ガリ勉」に類するあだ名で呼ばれていそうな風貌をしていている。少年はその場に突っ立ったまま、老婆をじっと見ながら何事か逡巡していた。だが、老婆と視線が合うと、あわてて視線を逸らした。
老婆の顔が能面のように無表情になった。
「私に、なにか用かい」
「い、いえ…別に…」
「でないなら、人のことをジロジロと見るもんじゃないよ。失礼な子だね。お前の親はどういう躾をしてるんだい」
少年はそれには答えず、ぐっと口を結ぶと、その場で回転して坂を上り始めた。老婆は「ふんっ」と鼻を鳴らし、何かをブツブツと呟きながら少年の背中を見ている。
少年はとぼとぼと5メートルほど進んだが、意を決したように老婆を振り返ると、また老婆の元へ引き返してきた。そして、老婆に向かっておもむろに手を差し出した。
老婆の顔が怒りで赤く染まった。
「なんだい。お前は物乞いか何かかい。お前にくれてやる物は何も無いよ」
「……いえ、違います。僕が手を引くので、一緒に上に行きましょう」
今度は老婆がたじろぐ番だった。老婆は、一瞬だけ眩しい物を見るかのように目を細めたが、すぐにその目には別の感情が浮び上がり、虚ろな視線を少年に投げかけた。
少年は無言でいる老婆と、横目で通り過ぎていく通行人達の視線のせいで、顔をまっ赤にしていたが、差し出した手はそのままにしていた。
老婆の目に再び鋭い光が戻ると、小さく鼻を鳴らしてから少年を避けるように坂を上り始めた。老婆に無視された少年は、ショックで体を硬直させていた。手を差し出したポーズのまま、少年は老婆を見送っている。
ゆっくりゆっくりと歩を進めていた老婆が、アコルデの入り口付近に着く頃には、その顔に苦悶の色が浮かび上がっていた。額には脂汗が浮かび始めている。老婆は足を止めると、いまいまし気に後ろを振り返って、未だに自分を見続けいる少年を睨んだ。
「なにボンヤリしてるんだい。さっさとここへ来て私の手を引かないか」
少年は不意打ちを食らったように体をびくつかせたが、2秒後には老婆へ向かって走り出していた。
(Chapter 1-4へ つづく)