- 2013年11月28日 23:48
Chapter 5
美央とケビンは、山手通りと井の頭通りが交差する、富ヶ谷交差点近くに建つ高級マンションの4階に居を構える事になった。
40㎡ほどの1LDKだ。ふたり暮らしには少し狭いが、最近はやりのオシャレな物件で、清潔感のある白い壁やフローリング、キレイな木目がプリントされたドアに大きな窓。設備的にもなんでも付いていて、オートロックに始まり、バス・トイレ別室、独立洗面台、室内洗濯機置場、見た目にもきれいなシステムキッチン、バルコニー付き。上を見れば切りがないが、十分クオリティは高い。
交通量の多い山手通りと井の頭通りが目の前にある。洗濯物を外に干すのは諦めたとしても、浴室乾燥機が付いているし、音に関しては防音効果の高い厚みのあるガラス窓のお陰で、さほど気にならない。
古くても広い物件や、同じ賃料を払うなら1.5倍ほど広くて設備が充実しているアパートを借りる事も出来たが、あえてこの高級マンションにしたのは、見栄を張ったというよりも、漠然と心の中で思っているお互いへの気持が、「将来の夢」として形を取り始めた結果でもある。
美央も当初は、ケビンよりは多い給料を貰っているとはいえ、もう少し古くて安い物件に住むつもりでいた。給料の半分近くをアメリカに住む母へ送金しているため、自分のために使う金額は少ない。だが、ケビンとつき合いだしてから、服や化粧品など身だしなみに使う額が増えてきて、生計を圧迫し始めていた。
パートをしながら1人で生活をしている美央の母も、娘の変化を良い兆候ととらえ、仕送りを止めるように提言してきた。それでもしばらくは送金を続けていたが、母が送金したお金を送り返すようになると、美央は感謝しつつ、自分のためにお金を蓄える事に決めた。そして、その一部がこのマンションの賃料分に取って代わった。
ケビンとしては、かなり無理をする格好になっていた。家賃の折半、それもキレイに2分の1にすると言い張った手前、今さら引くわけにもいかない。それに、美央との将来を考えて、仕事にもより一層の努力をする覚悟を決めていたので、おのずと給料も上がるだろうと踏んでいる。
「I’ll go get something to drink at Hanamasa, and maybe some snacks too. Do you need anything?(肉のハナマサで飲み物と、たぶんつまみも買ってくるけど、何かいる?)」
「No, I’m fine. Or you can get me a red wine at Seijyo Ishii, if that OK with you.(私は大丈夫。それか、成城石井に寄って、ワインなんか買ってきてくれてるとうれしいかも)」
「What kind?(どんなヤツ?)」
「Well, merlot please.(そうね、メルローをお願い)」
「No problem. Be back soon(お安い御用。すぐ戻るよ)」
サンダルを突っ掛けてドアから出てきたケビンは、エレベーターを待たずに階段を使う事にした。大きな荷物でも持っていない限り、美央とケビンはエレベーターを使わずに、階段を使うようにしている。それ以外にも、引っ越しが済むと、ふたりは歩いて7、8分の所にある代々木公園へジョギングをしに行くようになった。階段を使うのも、デスクワークが多いふたりが健康のためにと決めたルールのひとつだった。
外食をする回数も必然的に減った。仕事からの帰りが遅い美央は、職場近くスーパーで売れ残りの安い弁当を買って帰って来るのが常だったが、今では先に家に帰っているケビンが夕食の支度をしてくれている。その代わり、というよりも、朝食は自然と美央が支度をするようになった。ふたりがそれぞれに思い描いていた「幸福感」が、新居に満ちていた。
下の階から意気揚々と階段を駆けあがってくる男性とすれ違った。身長は160cmほどで、中肉中背、年は50代だろうか。黒いレンズのサングラスにハンチング帽、それにデザイナーズ系のスウェットの上下という出で立ちだ。だがケビンには、男が健康のために階段を使っているようは見えなかった。かなりのヘビースモーカーらしく、タバコの匂いを周囲にまき散らしている。
ケビンは階段を降りながら、以前美央が言っていた事を思い出した。
「芸能人なんかがお忍びで来るには、このマンションは最適よね。駐車場からは、メインエントランスを通らずにエレベーターに乗れるし、廊下で人とすれ違う事もほとんどないじゃない。ホントに人が住んでいるのかしら」
ケビンが男に会釈をすると、男は顔を真っ直ぐ向けたままケビンを無視して階段を上がって行った。
<I don’t even wanna imagine what would happen to that guy if Mio was here with me…(もし美央が今ここにいたらと思うとゾッとするな)>
男の背を見上げながらケビンが苦笑いをした。
男は非常ドアを開けて中へ入って行こうとした瞬間、振り返ってケビンを見下ろした。ケビンはあわてて階段を駆け降りて行った。
(Chapter 6へ つづく)