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2013年11月 Archive

アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第13回 Chapter 4-3

  • Posted by: 高田
  • 2013年11月 7日 20:10

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Chapter4-3

「ソーリー・バット・トゥービーオネスト・ウィズユー・アイドンハヴ・メニーグッドメモリーズ・ゼア。ソー・イフユー・ドンマインド……。(すみません。実を言うと、アメリカ時代の思い出って、あまり良いものではないんですよ。なので、申し訳ないんですが……)」
 油井の発言を聞いて、ケビンが言いかけていた言葉を飲み込んだ。美央も驚いて油井を見つめる。そして、その二人の様子を見た油井自身も、驚いて目を丸くした。
<なんだ? 今、俺なんて言ったんだ……?>
 美央とケビンがそっと目配せをする様子を見て、自分が伝えた塩沢の言葉がふたりを委縮させてしまった事に気づくと、油井はふたりの視線を避ける様に俯き、慌てて軽い咳払いをした。
『少し唐突だが、昔話はこの辺りで切り上げる事にする。今妙な空気が漂っているかもしれないが、取りあえず適当に話をまとめるぞ』
 塩沢は、ケビンと油井越しに会話を続けている内に様々な思い出が脳裏に浮かび始め、これ以上話を続ける事に耐えられなくなっていた。
 今の塩沢にとって、アメリカ時代の思い出は苦いものでしかない。塩沢の身に起こっている不思議な現象も、アメリカ時代の体験がきっかけだった。長い間アメリカ時代の事を話すことも思い出す事もしないでいる内に、当時の記憶が薄れている事に気づき、その事実にショックを受けていた。どこか昔を懐かしんでいる自分がいる事に腹も立っていた。
『油井、少し困ったような表情を作ってくれ。そうだな、過去のイヤな記憶を思い出しているような顔だ』
<なぁるほど>
 油井は合点がいって、塩沢に言われたように過去のイヤな記憶を思い出そうとした。だが、思い出すのは何故か数年前に塩沢に再会した時の魂が抜けたような表情だった。
 特に親しくしていたわけでもない元クラスメートと偶然町で出会い、生きているのか疑いたくなるようなその様子を見て声をかけた。今となっては、何故風貌がまるっきり変わってしまっていた塩沢を、自分が見分けられたのか定かではない。だが、何かが油井の背中を押したのだ。その結果、塩沢の特異体質を知ることになった。ちょうど金儲けを考えていた油井は、その奇妙な現象を有効活用すべく、塩沢を引っ張り込んで探偵事務所を開くことにしたのだった。
 生きる事に投げやりになっていた塩沢だったが、油井の強引な誘いやその欲の強さ、ひいては生に対する執着心を間近で見させられている内に、少しずつ人間らしさを取り戻し始めた。以前よりは塩沢の表情にも幅が出てきてはいるが、やはり普段の塩沢は無口で無表情だ。
<このガイジン、何か塩沢の気にさわる事でも言っちまったのか?>
 そんな事を思いながら、油井は困惑顔というよりは淋しげな表情を二人に見せると、再び目を伏せた。
「I didn’t know that you had bad experiences when you were in the States… I’m very sorry… Would you like to talk about it? We can forget about showing us the room today.(アメリカでイヤな思いをされていたなんて……、とても残念です。もし話し相手が必要なら言って下さい。今日の内見は忘れてもかまいません)」
「Yeah, that’s right. I’d like to know what happened to you at BU. Well, if that’s where it happened, though… (そう、そうですよ。私もボストン大学で何があったのか知りたいです。いや、もし本当にそこで起こった話ならですが……)」
 油井は俯いたまま黙っている。塩沢が何も言わないので、そのままの姿勢でいるしかないのだ。ふたりの声のトーンを聞いて、話の内容が深刻さを増しているように感じていた。自己判断で、勝手に相手を気遣うような笑みを浮かべるわけにもいかない。
<こんな所へノコノコとついてくるんじゃなかった……>
 今度は本当に悲しそうに店の奥の様子を横目で窺った。
「…If you don’t want to share with us, that’s perfectly fine. I didn’t mean to make you feel bad at all. Please forget what I said.(打ち明けたくなければ全然かまわないんですよ。気分を害してしまったなら、ごめんなさい。忘れて下さい。)」
 美央が少し慌てながら声をかけると、そっと油井の手を取った。油井は反射的に手を引っこめると、バツが悪そうに美央を見た。だが、美央は気にした様子もなく、もう一度「I’m sorry.(ごめんなさい)」と申し訳なさそうに言った。
 深刻な顔で油井を見ていたケビンは、意を決したように油井に話しかけた。
「…I hope I’m wrong about this. But if you are a close friend of her, I’m very sorry…(……間違っていてほしいんですが、もし、あなたがあの女性と近い関係の友人だったら、申し訳ありません……)」
 美央は、胸が急にざわつくのを感じていた。恋人に突然過去の秘密を打ち明けられた時のような、苦い思い出が苦い味となって口いっぱいに広がった。
「Do you know a girl named Tokiko by any chance? She was also a Japanese student at BU, and she was a victim of… (もしかして、『トキコ』という名の女性を知っていませんか? 彼女もボストン大学に通っていた日本人学生で、彼女はある事件の被害者で……)」
「シャラップ! シャッザ・ファック・アップ!(黙れ! 黙りやがれっ!)」
 油井は大声を出した自分に驚いて、思わず立ち上がってしまった。反射的に反復した塩沢の激しい口調がうつってしまったのだ。
<マズッた!>とは思いながらも、だが同時に頭の隅では、ケビンの言葉の中に「Tokiko」という名前を見つけていた。その結果として、塩沢が言うであろう答えも分かっていたのかもしれない。
<地雷を踏んだな、コイツ……。でも、なんでコイツがチーちゃんの事を知ってるんだ……?>

(Chapter 4-4へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第14回 Chapter 4-4

  • Posted by: 高田
  • 2013年11月15日 11:07

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Chapter 4-4

 ケビンは、油井にかける言葉が見つからず、そのまま押し黙っている。見ず知らずの東洋人が、自分の国の言葉で暴言を吐いた事に怒りを覚えることはなかった。ただ単に、聞いてはいけない事を聞いてしまったのだという事実を受け入れる努力をしていた。
 同じように隣で黙ったままでいる恋人の横顔を申し訳なさそうに見た。美央は神妙な顔で油井をじっと見上げている。油井の言葉にショックを受けている訳ではなく、冷静な表情の中に憐みとも同情とも取れる視線を油井に注いでいる。
 油井の耳元では、塩沢がまだ大声で何かを喚き散らしている声が聞こえていたが、それをそのまま相手に伝える事は不可能だった。早口の英語である事に加え、ほとんどが呻き声や叫び声のようなもので、日本語も混ざってはいるものの、一体何をどう伝えればいいのか見当もつかない。塩沢の過去に関しては、油井が足を踏み入れるべき領域ではない事は承知していたし、それに加えて、塩沢の感情に引きずられて自分の体が床に沈んでいくような感覚に陥っていて、全てを投げ出したい気分になっていた。
 店の客が何事かと油井たちを見ている事に気づいた。店の奥の店員も不安げに様子を窺っている。
 油井は天井を見上げると、諦めたように耳からレシーバーを外し、それをテーブルの上に置いた。続けてイスに座りなおすと、テーブルの上のグラスを手に取り、中の水を一気に飲み干した。目の前のふたりは、この状況が理解出来ないのか、困惑顔で顔を見合わせている。
 一息つくと、
「……失礼しました。今のは……、気にしないで下さい。本当に申し訳ありません。僕の相棒が何か失敗でもしたらしくて、思わず乱暴な言葉が口から出てしまった様でして……」
 油井がふたりに頭を下げた。
 美央の表情が険しくなった。
「What’s going on here? (何が起こっているんですか?)」
 油井がレシーバーを指さした。
「……実は、僕は英語を話せません。別の場所で会話を聞いている相棒が言うセリフを、意味も分からずにオウム返しの様に口から出していただけなんです……。今のも『慣れ』というか、ついアイツの言った言葉が反射的に口から出てしまっただけで……。なので、あれはあなた達に向かって言ったワケではありません。―――本来ならその相棒が直接お相手をすればいい話なんですが、そうもいかない事情がありまして……。なので、僕が英語を話せるフリをして接客をしていた、というわけなんです。ウソをついていたみたいで、ホント申し訳ありません……」
 額から大量の汗を流しながら説明を終えると、まだ手がつけられていないケビンのグラスを取って水をひと口飲んだ。そのグラスをケビンに返すと、怒られる事を覚悟した子供の様に、目をつむってこうべを垂れた。
 だが、美央の関心は別の所にあった。
「……では、アメリカでイヤな体験をされたのは、あなたのパートナーなのですね?」
「え? い、いや、アイツが怒鳴ってたのは、事務所の人間に対してで、あなた達の話は関係ありません……よ、ホントに」
 会話の内容が理解できないケビンは、小声で美央に説明を求めた。事情を把握したケビンが美央を通して質問をしてきた。
「そのパートナーの方に、『塩』という字が名前に付いていますか? 彼が『ソルト』というあだ名しか思い出せないというんです」
「はぁ? な、なんスか、それ? ウチの調査員にそんな名前のヤツはいないし、そのアメリカでの話は、まったくもってこっちには無関係ですってば!」
 塩沢の名前まで持ち出してきた事に驚かされると、油井は思わずむきになって返答をしてしまった。その不自然さに気づくと、次はまるで外国人の様に肩をすくめ、<困った人たちだ>と言わんばかりに頭を振ってみせた。油井の反応はおかしくなる一方だった。
 美央はそれ以上の追及を一旦止め、別の質問をした。
「調査員? もしかして、保険の調査員ですか? 不動産には全く関係の無いお仕事をされているんですか?」
 油井ががっくりと肩を落とすと、再度ケビンの水を飲み干した。次々と隠し事が暴かれていく犯罪者の様な、妙な気分を味わっていた。
「同じビルの4階で探偵業を営んでおりまして、不動産はただのアルバイトでございます。しかしながら、アルバイトとはいえ、それなりの勉強はしておりますので、ご安心ください。―――っと、こんな感じで、ご納得していただけます?」
「探偵……、ですか?」
 美央が目を丸くしながら、ケビンにその説明をした。ケビンもまた目を丸くしている。
「一応これでも、僕が事務所の所長です。で、海外留学の経験がある相棒……、いや、えー、そうそう、もし身元調査などの御用があれば、ぜひ上の階にもお立ち寄り下さい」
 油井がぎこちない営業スマイルを見せた。
 美央は一瞬思案顔になったが、すぐに油井を真っ直ぐに見つめると、姿勢を正して言った。
「最初にウソをついていたのは私です。あなたのついたウソは、私はウソとは呼びません。あなた達は、ふたりで協力して一緒にお仕事をしていただけ。隣にいるかいないかだけの違いです。でも、最初にそう言っておいてくれればよかったとは思いますけどね」
 油井が、今までの憂鬱な気分が一気に晴れたかのような笑顔を見せた。
「いやー、そう言ってもらえると、気が楽になります。そうなんですよ。僕たちはチームなんです。何も難しく考える事はなかったんですよね。うーん、素晴らしい着眼点だ」
 とは言いながらも、後で事務所に戻る時の事を考えると、油井の気持ちは一気に沈みがちになる。
「あの音楽を使って私のウソを認めさせたのも、そのパートナーさんのアイディアですか?」
 美央が照れくさそうに聞いた。
「いや、それは自分です……。やっぱ、やりすぎでしたかね?」
「なら、よかった。アレはサイコーでした。気にしないで下さい。私はあなたが気に入っているんです。ぜひ、このまま物件探しにつき合って下さい」
 顔を赤くしている油井を見て、美央が訂正した。
「―――なんか、ヘンな言い方をしちゃいました?」
 そう言って美央が笑った。油井も照れ笑いをしながら、「いやいや、全然」と手を振った。ケビンは、目をパチクリとしながらふたりのやり取りを見ている。
 と、そこへ揚げたてのとんかつが運ばれてきた。油井の意識が瞬時に食べ物に移動した。そのまま、その黄金色の衣に見とれている。
 どうにか場が丸く収まったと思った瞬間、無くなっていた食欲が急に戻ってきた。そして、油井の腹が鳴った。その音を合図にして、3人は食事に取りかかった。

*

(Chapter 4-5へ つづく)

アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第15回 Chapter 4-5

  • Posted by: 高田
  • 2013年11月22日 11:37

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Chapter 4-5

 食事を終えた3人が、和やかな雰囲気を残したまま席を立った。
「いやぁー、うまかった! やっぱ店で出来たてを食べるのはいいよなー!」
 美央とケビンがニコニコしながら油井を見ている。
 食事中の会話は、日本食などの食に関するものが中心で、多少の気まずさを引きずっていた油井も喜んで会話に参加した。素材を生かす技術や、日本食の健康神話の信憑性、またアメリカの日本食レストランの変わり種メニューの事など話題は尽きなかったが、美央がケビンに通訳をしなくてはならない分、会話が「弾むように」進んだとは言えなかった。
 油井が改めて形式的に聞いた。
「本当にごちそうになってしまっていいんですか?」
「もちろん! 今回だけとは言わずに、またその内いっしょに食べにきましょうよ、ね?」
「It was very good. I like it here. Let’s come back here again soon.(とってもおいしかったです。また食べにきましょう)」 
 さっきまでのぎこちない雰囲気が、お腹が満たされた事によって完全に消え去っていた。会話の中で、アメリカからの逆輸入的な食材である「ソフトシェルクラブ」を、美央が苦手という話が出たので、油井がそれをおいしく調理する店を探して、また一緒に食事をすることになっていた。
 ケビンがテーブルの上の伝票を取ると、美央にさりげなく目配せをした。財布には必要最低限分のお金しか入れていないケビンのために、美央があらかじめ1万円を渡していたのだ。ケビンは日本に来て以来、ほとんど贅沢をした事がない。たまにバーに行くぐらいで、それも月に1度か2度のささいな贅沢だ。美央との外食でも代金は出来るだけ自分が持つ努力をしてはいるものの、折半、もしくは奢ってもらってしまう事も度々あった。
 今回の食事は美央が提案したものの、ケビンに恥をかかせまいという美央の気持ちを受けとめ、素直にお金を借りることにした。だが引っ越し費用で貯金をほとんどはたいてしまうケビンが、返済の出来る見込みはないことは美央も知っているし、これから同居をするに当たって、財布はひとつにするつもりでいたので、美央にとっては自然のことだった。
 レシーバーをテーブルの上に置いたままにしていた油井は、「これでコイツもお役御免かな」とつぶやきながら上着のポケットに仕舞った。そのまま階段を降りて行こうとする油井を、美央が呼び止めた。
「話を蒸し返すようで申し訳ないんですが、私はあなたのパートナーに起こった出来事、いえ、あなたのパートナーの事が気になっているんです。もしよければなんですけど、その『ソルト』というあだ名の方に、一度お目にかかる事、出来ますか?」
 油井はアメリカでの出来事と塩沢との関係を再度否定しようとしたが、相手がそうだと信じ込んでいるというよりも、結果的に自分の態度が相手にそうだと告げてしまったらしいという事実を認めざるを得なかった。店内の前面は一面ガラス張りだが、内側には大きな障子があり、外から見えなくなっている。その壁の向う側、塩沢がいるはずの方向を一瞥すると、油井は観念して言った。
「あなたが僕の相棒に、個人的な興味で会う事は出来ないでしょうね。なんせ、アイツは依頼者にも姿を見せないストイックな調査員なので。でも、あなたが会いたがっていた事は伝えておきますよ。申し訳ないです」
「―――そうですか、分かりました」
 美央は確認が終了したとでもいうようにひとつ頷くと、突然油井に抱きついた。それを見たケビンが驚いて背後のテーブルに足をぶつける。
 美央は油井を抱きしめたまま、「あなたのパートナーに直接こうしてあげたかったけど、私の代わりにハグしてあげて下さいね」と言って離れた。
 油井は体中に妙な汗をかきながら、うんうんと何度も頷いた。

 一階で会計を済ませた三人は、ケビンを先頭にして自動ドアから外へ出て行った。外へ向かって歩きだした途端、ケビンの体が見えない壁にでもぶつかったかの様によろめいた。ケビンは体勢を立て直すと、その見えない壁を探すかのように辺り一帯に手を伸ばした。だが、その手が触れるものは空気だけだ。
 ケビンが納得がいかないという表情で美央を振り返ると、美央は「Well, I didn’t know you order Sake. Are you OK? (お酒をオーダーしていたなんて知らなかったわ。大丈夫?)」と、からかった。
 だが対照的に、体を硬直させて立ちすくんでいる油井の表情は青くなっている。慌ててガラス張りの建物に映っているはずのモノを探した。案の定、油井はそこにある人影を見つけた。
 長身痩躯の塩沢が、暗い眼差しでケビンを見つめていた。
 本体は見えないのに、その影だけがガラスに映っている。吸血鬼の姿が鏡に写らないのとは逆で、塩沢は鏡や光を反射する物質にのみ、その姿を映し出すのだ。
美央が不思議がるケビンの背中を叩いて先に進ませる。ふたりはガラスの壁に映る塩沢の存在には全く気づいていない。塩沢はケビンの手が届かないぎりぎりの位置に立ちながら、ふたりのやりとりを見ている。
 油井は、「透明人間」の塩沢とガラス越しに目が合うと慌てて眼を逸らして、美央とケビンを斜め前の不動産事務所に戻るよう促した。ふたりとの距離が開くと、油井がガラスに映っている相棒に話しかけた。
「と、とにかく、後でゆっくり話そう、な? 俺はバイトを終わらせてくるから、お前は事務所で待っててくれ。いいな」
 油井は小声でそう言うと、急いで事務所に向かって走り出した。
 塩沢は何も言わず、3人が建物に入っていくまで、じっとその背中を見つめ続けていた。

(Chapter 5へ つづく)

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お昼の「とんかつ武信」はこんな感じです。印象的な外観です。

アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第16回 Chapter 5

  • Posted by: 高田
  • 2013年11月28日 23:48

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Chapter 5

 美央とケビンは、山手通りと井の頭通りが交差する、富ヶ谷交差点近くに建つ高級マンションの4階に居を構える事になった。
 40㎡ほどの1LDKだ。ふたり暮らしには少し狭いが、最近はやりのオシャレな物件で、清潔感のある白い壁やフローリング、キレイな木目がプリントされたドアに大きな窓。設備的にもなんでも付いていて、オートロックに始まり、バス・トイレ別室、独立洗面台、室内洗濯機置場、見た目にもきれいなシステムキッチン、バルコニー付き。上を見れば切りがないが、十分クオリティは高い。
 交通量の多い山手通りと井の頭通りが目の前にある。洗濯物を外に干すのは諦めたとしても、浴室乾燥機が付いているし、音に関しては防音効果の高い厚みのあるガラス窓のお陰で、さほど気にならない。
 古くても広い物件や、同じ賃料を払うなら1.5倍ほど広くて設備が充実しているアパートを借りる事も出来たが、あえてこの高級マンションにしたのは、見栄を張ったというよりも、漠然と心の中で思っているお互いへの気持が、「将来の夢」として形を取り始めた結果でもある。
 美央も当初は、ケビンよりは多い給料を貰っているとはいえ、もう少し古くて安い物件に住むつもりでいた。給料の半分近くをアメリカに住む母へ送金しているため、自分のために使う金額は少ない。だが、ケビンとつき合いだしてから、服や化粧品など身だしなみに使う額が増えてきて、生計を圧迫し始めていた。
 パートをしながら1人で生活をしている美央の母も、娘の変化を良い兆候ととらえ、仕送りを止めるように提言してきた。それでもしばらくは送金を続けていたが、母が送金したお金を送り返すようになると、美央は感謝しつつ、自分のためにお金を蓄える事に決めた。そして、その一部がこのマンションの賃料分に取って代わった。
 ケビンとしては、かなり無理をする格好になっていた。家賃の折半、それもキレイに2分の1にすると言い張った手前、今さら引くわけにもいかない。それに、美央との将来を考えて、仕事にもより一層の努力をする覚悟を決めていたので、おのずと給料も上がるだろうと踏んでいる。
「I’ll go get something to drink at Hanamasa, and maybe some snacks too. Do you need anything?(肉のハナマサで飲み物と、たぶんつまみも買ってくるけど、何かいる?)」
「No, I’m fine. Or you can get me a red wine at Seijyo Ishii, if that OK with you.(私は大丈夫。それか、成城石井に寄って、ワインなんか買ってきてくれてるとうれしいかも)」
「What kind?(どんなヤツ?)」
「Well, merlot please.(そうね、メルローをお願い)」
「No problem. Be back soon(お安い御用。すぐ戻るよ)」
 サンダルを突っ掛けてドアから出てきたケビンは、エレベーターを待たずに階段を使う事にした。大きな荷物でも持っていない限り、美央とケビンはエレベーターを使わずに、階段を使うようにしている。それ以外にも、引っ越しが済むと、ふたりは歩いて7、8分の所にある代々木公園へジョギングをしに行くようになった。階段を使うのも、デスクワークが多いふたりが健康のためにと決めたルールのひとつだった。
 外食をする回数も必然的に減った。仕事からの帰りが遅い美央は、職場近くスーパーで売れ残りの安い弁当を買って帰って来るのが常だったが、今では先に家に帰っているケビンが夕食の支度をしてくれている。その代わり、というよりも、朝食は自然と美央が支度をするようになった。ふたりがそれぞれに思い描いていた「幸福感」が、新居に満ちていた。
 下の階から意気揚々と階段を駆けあがってくる男性とすれ違った。身長は160cmほどで、中肉中背、年は50代だろうか。黒いレンズのサングラスにハンチング帽、それにデザイナーズ系のスウェットの上下という出で立ちだ。だがケビンには、男が健康のために階段を使っているようは見えなかった。かなりのヘビースモーカーらしく、タバコの匂いを周囲にまき散らしている。
ケビンは階段を降りながら、以前美央が言っていた事を思い出した。
「芸能人なんかがお忍びで来るには、このマンションは最適よね。駐車場からは、メインエントランスを通らずにエレベーターに乗れるし、廊下で人とすれ違う事もほとんどないじゃない。ホントに人が住んでいるのかしら」
ケビンが男に会釈をすると、男は顔を真っ直ぐ向けたままケビンを無視して階段を上がって行った。
<I don’t even wanna imagine what would happen to that guy if Mio was here with me…(もし美央が今ここにいたらと思うとゾッとするな)>
 男の背を見上げながらケビンが苦笑いをした。
男は非常ドアを開けて中へ入って行こうとした瞬間、振り返ってケビンを見下ろした。ケビンはあわてて階段を駆け降りて行った。

(Chapter 6へ つづく)

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富ヶ谷交差点の「肉のハナマサ」。なんと24時間営業です。

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「成城石井」。輸入食品などが豊富です。今では競合も多いですが、まだまだ健在。便利です。

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