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2013年7月 Archive
アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第1回 Chapter 1-1
- 2013年7月 2日 15:49
- 「アメリカの友人」
Chapter1-1
男は表参道や青山を見て回った後に、千代田線明治神宮前駅から二つ目の代々木上原駅で降りた。今までの喧騒が嘘の様に穏やかな空気が流れている。人通りは多くもなく少なくもなく、適度なパーソナルスペースが保たれている。電車の窓から眺めていた町の風景から想像していたよりも立派な駅ビルがある事に少々驚かされたが、降り立った町自体はこぢんまりとしていて、新旧の小さな店が軒を連ねている。
日本の繁華街を歩いていると、男はニューヨークシティに行く度に、息が詰まるような錯覚に陥ったことを思い出した。だが、それは錯覚などではなく、自分の体に起こった一種の拒否反応だったのだろうと今では考えている。常に最新のトレンドを発信する情報都市としてのスピード感と物量、街を行きかう人々と車のせわしなさなどは、男の生まれ故郷にはほぼ無縁の物であり、文字通り人の波にのまれ、そして溺れるのだ。
しかし、若さは時に常識を重んじる事よりも衝動を優先し、欲望が体と脳を支配する。男もまた、学生時代には刺激を求めてNYCなどの大都会へ出るのだが、半日もしない内に地元のバーモント州に戻りたくなるのが常だった。北米の小さな州で、アイスクリームのBen & Jerryに代表されるように、牛がトレードマークになっているような場所だ。だが全米一の紅葉が見られる場所として有名で、またスキーリゾートとしても名だたるスキー場を持ち、スノーボード発祥の地でもある。そのためか、大金持ちが所有する別荘なども多い。緑は豊富だが、一年の半分は雪に埋もれている。ヒッピー文化も根強く残る素朴な場所だ。
日本での生活は名古屋が出発点で、東京へ来たのはつい二日前。初めての東京旅行だ。日本の大都市もまた、男にとってはアメリカの大都市と同じような息苦しさを抱かせる場所には変わりはなかったが、行く先々で感心させられる街の清潔感と、この国の人々のやさしさが、男をこの地に留めている。
ガールフレンドの母国でもある、という理由も大きなウェイトを占めている。名古屋の小学校での英語教師の職を得たのが一年半前で、「仲間」との交流を求めて出入りするようになった外国人が多く来るバーで、彼女と出会った。東京から名古屋へ出張で来ていた彼女もまた、英語での交流を求めて店に来たという話を聞き、自然と意気投合した。
彼女の出張回数はけっして多くはなく、遠距離恋愛を続けているよりも、多少は融通がきく自分が動こうと、東京に引っ越すことに決めた。在日外国人に英語教師の職を派遣する会社に登録していたのだが、東海支部の上司が関東支部に口利きをしてくれたため、事はスムーズに進んだ。運よく渋谷区の小学校に英語教師の空きが出ると、そのチャンスを手にして、すぐに引越しの日取りを決めた。自分の都合で決めた転職だったが、名古屋の小学校で催されたお別れ会に出席した時は、自分の決断を多少後悔した。だが、彼女と一緒にいる事に、男は使命にも似た決意をしており、別れる事になるような機会を少しでも残すわけにはいかなかった。
初めての東京という事もあり、先に観光をしてから部屋探しをすることに決めていた。今日は代々木上原の不動産屋で部屋を見せてもらう事になっている。
「So, how do you like the town?(町はどう?)」
二十代後半の女が男に聞いた。スラリとした長身の女性だ。日本人に見えるが、どことなく違和感がある。美人の部類には入るが、正統派の美人ではなく、アクの強さが顔立ちや身ぶりに出ている。
「Yeah, I like it a lot. Yoyogi-uehara is a nice little town. People here seem nice too. If we find a nice room, I’d stay here for a long time.(ああ、気に入ったよ。この代々木上原ってかわいらしい町だね。それに人の様子もいい感じだし、部屋さえよければ、長く住むと思うよ)」
三十代前半の白人男性が隣の恋人に微笑みながらウィンクした。男もまたひょろりとした背高のっぽで、顎を前に出して歩く癖があり、長じて背中を丸める姿勢をとるために猫背になっている。細面のハンサムだが、短めに切りそろえられているダークブラウンの髪の生え際がすでに後退し始めている。
女は男が言外にアピールしてきた部分を無視して、
「See? I knew it. It’s close to my office and your school too. But there is something we need to concern. It’s the Japanese landlords. They have a tendency to dislike non-Japanese speakers. So let me handle the realtors. OK?(でしょ? 分かってたんだから。私のオフィスにもあなたが通う小学校にも近いしね。でも、気をつけなくちゃいけない事があって、日本の大家さんて、日本語を話せない住人を嫌う傾向があるのよね。だから、不動産屋では私に任せておいてね)」
自信家らしい強気の表情を一瞬見せると、すぐにウィンクをして微笑んだ。男はそんな彼女を眩しそうに見つめ、「Love you. (愛してるよ)」と言うと、彼女の額にキスをした。女はその行為が嫌いらしく、男の二の腕を軽く叩いた。
「Don’t do that! How many times do I have to tell you? (やめてっていつも言ってるでしょ! 何回同じことを私に言わせる気?)」
女は額へのキスを子供っぽい行為と思っている。男はそれを知りつつも、ついやってしまうのだった。
<日本に来て、本当に良かった>
男は今の自分の境遇に感謝していた。本国の地元では、厄介者扱いをされていたこともあり、感謝の気持ちは事さらに大きい。一応カソリックだが、神に感謝することはほとんどなかった。だが、日本に来てからは、その回数が一気に増えた。
(Capter1-2 へつづく)
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アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第2回 Chapter 1-2
- 2013年7月 8日 00:58
Chapter1-2
本国アメリカでは大学を卒業したという事以外に、男には特に目立った所がなく、うだつが上がらない人間と周囲から見られていた。まともな仕事に就くことなく、パートタイムのセールスマンやレストランのウェイター、ピザのデリバリーボーイなどをして日銭を稼いでいた。母親はアメリカの低迷している経済状況による就職難のためで、息子のせいではないと庇っていたが、父親は大学まで出て職にありつけない息子をふがいないと感じていた。
子供を大学まで出すとなると、学費ローンはもちろんの事、経済的負担はそれなりに掛かる。父親は自分たちの暮らしを平均的なミドルクラスと言ってはばからないが、それは多分に思い込みや見栄の要素が強く、それでもひいき目で「中の下」と男はランク付けをしている。学費ローンの返済に追われていると、親の見栄で大学に入ったのかと錯覚を起こす事もある。しかし、その境遇を跳ね返すかのような努力家の弟がいて、大学卒業前に大手IT企業への就職を決めたために、父親の男に対する評価は下がる一方だった。
男自身も、大卒でも仕事が見つからないのはあまりにも普通すぎるGPAのスコアが原因なのか、それとも不況による就職口の減少のためなのか分からなかった。だが、口にこそ出さないが、大学時代に起こした暴力事件が関係しているのかもしれいと、内心では思っている。父親との関係が悪化したのも、その事件がきっかけなのは明白だった。
マサチューセッツ州のボストン大学を卒業すると、同じ大学の卒業生というだけで力を貸してくれる卒業生のコネクションを頼りに、マサチューセッツ州はもとより、近隣のニューヨーク州、コネチカット州などのオフィスで働くチャンスを得た。しかし、仕事と言ってもコピー取りや郵便の仕分けなどの雑用ばかりで、上の職へ引き上げてもらえる機会には恵まれなかった。大学時代に別れた彼女の父親が、背後で手を回しているのかと疑ってみたりもしたが、それが事実だとしても文句を言える立場ではなかった。
腐った気持ちを抱えながら地元へ帰ると、偶然大学時代に知り合った日本人留学生と再会する機会があった。彼は日本人留学生を大学などへ紹介し、現地まで引率するビジネスをしていた。男が自分の境遇を話すと、彼はビデオチャットを利用した、外国人向け英会話教室の話し相手になるというアルバイトを紹介した。
ボストン大学で多くの留学生を見たが、中でも男の日本人に対する印象は良好だった。中にはドラッグにハマって退学してしまう日本人留学生もいたが、それはほんの一部で、彼らの礼儀正しさや親切心には常に感心させられていたものだ。そしてその印象は、英会話のアルバイトを通しても変わることがなく、さらに良くなる一方だった。二年半のアルバイト経験を通して、日本人や日本の文化への興味が強くなっていくと、ついには日本行きを決意し、実行したのだった。
代々木上原駅から少し離れた場所にある、青い壁とガラス張りのビルの一階にある小さな不動産業の前に着くと、女が言った。
「Here we are.(ここよ)」
大きな黒いサングラスの向うの目は見えないが、形の良い唇の端が上げて、男を安心させる気遣いを見せた。
内見を希望する物件の一覧はすでに送付済みで、今日は五件ほど見る予定だ。そして可能ならば本日中にでも申し込みを入れるつもりでいる。さもなければ、明日のデートを取りやめて、再度物件探しを続けなければならない。明後日には一旦名古屋へ戻って、引越しの手配や準備をすることになっていた。
女の笑顔に自分も笑顔で返したが、自分から同棲する事を提案した後は全てを彼女にまかせっきりで、今では立場が逆転してしまっていることに苦笑いをしそうになった。日常的に日本語を使う機会が少なく、彼女との会話も英語なために、男はまだ片言の日本語しか話せない。英語を教えていると、お返しに日本語を教えてくれようとする生徒も多くいるのだが、日本語は難しすぎると感じていて、いつも遠慮してしまう。子供たちがふざけて教えた「ガラの悪い」言葉なら、二三は覚えているが。
「Hey Mio. Do they speak English?(美央、彼らは英語を話せるのかい?)」
「I don’t know. Why, Kevin? Do you wanna give them an English lesson? Or you think I’d give them a hard time, talking in English?(分からないけど、なんでケビン?ここの人たちに英語のクラスでも開きたいの?それとも、私が英語を話して彼らをイジメルとでも思うの?)」
「Well, just checking…(いや、ただの確認だよ……)」
「I was just kidding. I will talk to them in Japanese. So you just sit there. Don’t you worry a thing, Alright? (冗談よ。日本語で話すわ。だからあなたはただ座ってるだけでいいわ。後は任せておいて)」
男、ケビンは安堵しながら「Yeah, I know.(ああ、分かってるよ)」と笑顔で答えた。
女、美央は海外生活が長かったためか、日本語を話すのが面倒になる事があるらしい。それ以外にも、「これは性分だから仕方がない」と言われ、あまり口出しをしないでいるが、彼女にはひとつ困った性癖があった。ある種の日本人に遭遇すると、必ずと言っていいほど英語で捲くし立てるのだ。
今日は大丈夫だろうと安心しながら、ケビンはガラス越しに店内を覗き込んだ。
(Chapter1-3 へつづく)
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アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第3回 Chapter 1-3
- 2013年7月16日 16:24
Chapter1-3
目の前の自動ドアが開くと、ひとりの外国人男性が店から出てきた。店内の人間に、訛りのある英語で別れの挨拶をしている。どうやらフランス人らしい。ケビンは意外そうにそのフランス人を見てから、続けて店内に目を向けた。
店の入り口付近には、派手な背広に身を包んだ小太りの男が立っていて、フランス人に向けていた愛想笑いを顔に張り付けたままケビンと美央を見た。もう一人の社員らしき男性も、自動ドアのボタンを押して閉まらないようにしながら、外にいるケビンと美央に微笑みかけている。ケビンと目が合うと、小太りの男性の愛想笑いが引きつった笑みに変わった。
ケビンは慌てて隣に立つ美央を見た。美央はフランス人の方を見ていたため、店内の様子には気づいていない。ケビンはこの先に起こるであろう光景を予感して、思わず天を見上げた。だが、ケビンが懸念している事態は、店の中ではなく店先で起ころうとしていた。
外へ出てきたフランス人男性と、歩道を歩いていた50歳前半の男性が、店を出て5メートルほどの場所でぶつかってしまった。慣れないスマートフォンを弄りながら歩いていた日本人男性は、近づいてくるガイジンを見て慌てて避けようとしたのだが、フランス人男性と日本人男性は同時に同じ方向に移動してしまい、そのままぶつかってしまった。
日本人男性の手からスマホが落ちて、ガシャンと地面で音をたてた。地面に転がる自分のスマホを見て、日本人男性が目を剥いた。
「あーっ!」
「ス、スイマセン……」
フランス人が急いでそのスマホを拾い上げて、日本人男性に手渡す。
日本人男性は、フランス人をひと睨みして何かを言いかけたが、すぐに目をそらすとそのまま目を合わせないようにして歩き去ろうとした。すると、突然美央が男性の前に進み出て言った。
「He said “excuse me” to you in Japanese, right? Even if you don’t speak English, at least you could say “thank you” in Japanese. Don’t you think? (相手は『すみません』って日本語で言ったのよ。英語は話せなくても、最低でも『ありがとう』くらい日本語で言えるんじゃない?)」
恋人の剣幕を見たケビンは、小さくため息をついた。これが彼女の困った性癖だった。中高年の英語を苦手とする世代は、ガイジンを見ると関わらないようにそそくさと逃げて行ってしまう。美央はその様が大嫌いだった。そして、彼女はそういう人物を見つけると、故意に英語で話しかけるのだ。
(Chapter1-4 へつづく)
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アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第4回 Chapter 1-4
- 2013年7月20日 01:39
Chapter1-4
「And you have something to say to him, right? Why could you say in Japanese? You gotta say what you gotta say. You know what I mean?(で、彼に何か言いたい事があるんじゃないの? 日本語で言えば良かったじゃない。言いたい事は言うべきなのよ。分かる?)」
日本人男性は、ビックリして丸くなった目を美央に向けていたが、何かの勘が働いたのか、恐る恐るフランス人男性の方を振りかえると、頭を小さく下げて、「……サンキュー」と言った。フランス人男性も同様にビックリして立ちつくしていたが、「ハ、ハイ……」と同じように頭を下げた。
「That’s more like it. Are you sure, you don’t wanna complain about your smart-phone? Well, let me see… (そう、それでいいわ。本当にスマホの事で文句言わなくていいの? ちょっと失礼……)」
そういうと、美央が日本人男性の手の中のスマホを覗き込む。
「It’s just a scratch. No harm done. Well, I think you can go now. (大したキズじゃないわ。心配ないわね。じゃあ、もう行っていいわよ)」
美央が男性の前から退いて、道を譲った。
日本人男性は、目をパチクリさせると、「サ、サンキュー」とひとこと言って美央に会釈をすると、急ぎ足で去って行った。
フランス人男性が美央とケビンの前へやって来ると、
「Thank you. But you didn’t have to do that. He’s just shy, you know? (ありがとう。でもあそこまでしなくてもよかったんじゃないかな。彼はシャイなだけなんだから)」
と、フランス人男性が美央に向かって言った。
「Excuse me, but do I look American to you? (あら、私、あなたにはアメリカ人にでも見えるのかしら?)」
美央がフランス人男性を見ると、挑むように腰に手を当てた。
「…Well, more like Japanese… (いや、どちらかというと日本人かな……)」
「Thank you! If you get my point, you should leave now. OK? Bye-bye. (でしょ?これで私の言いたい事分かるわよね?じゃあ、バイバイ、さようならー)」
美央はまだ何か言いたそうなフランス人に手を振って追い払うと、困った顔をしながら横に立っている恋人を見上げた。
「Sorry about that. Shall we? (お待たせ。じゃあ、入りましょう)」
美央はケビンの返事を待たずに店内へ入って行った。
「いらっしゃいませ!」
店の奥にいた社長らしい恰幅の良い男性が、ケビンと美央を店内へ招き入れようと席から立った。にこやかにほほ笑みかけているが、店の外で起こっていた出来事には気づいているらしく、どことなく表情が硬い。
フランス人男性の相手をしていた小太りの男性は、二人組の客と社長を交互に見ながら、当惑顔をし続けている。
「予定より早く来ちゃいましたね」
小太りの男性、油井(あぶらい)の露骨な拒否反応を見て、社長が囁いた。
「今日は、さっきのフランス人だけって話したよね。俺、もう上がってもいいんですよね?」
油井が背後に立つ社長に小声で話した。
「たしかこの人たち、日本語話せはずなんけど……、念のためにちょっと待ってもらえます?」
二人が店に入って来ると、油井が再び露骨に迷惑そうな顔をした。
それを見た美央の表情が硬くなる。ケビンの体にも緊張が走った。
社長が接客用テーブルのイスを引きながら、
「さ、さ、こちらへお掛け下さい」
と声をかけた。
美央は社長を見ていない。目の前の油井に微笑みかけている。ふいに手を指し出すと、言った。
「Hi, nice to meet you. You must be the one to show us the rooms today, right? We have a whole day today, so we’re expecting to find something really good. And hopefully do the paper works too.(はじめまして。あなたが今日部屋を見せてくれる人ですよね。今日は一日空けてあるので、いい部屋を見つけられる事を期待しています。申し込みまでいけると嬉しいですわ)」
油井は、苦笑いを浮かべながら美央の手を取った。油井の掌は汗をびっしょりとかいていたが、美央はそれを気にする素振りを全く見せない。
どうやら、今日は英語でいく事に決めたらしい。ケビンは、美央に気づかれないように再び小さなため息をついた。
(Chapter2-1 へつづく)
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アブソルート代々木上原探偵事務所 「アメリカの友人」 第5回 Chapter 2-1
- 2013年7月31日 16:10
Chapter2-1
「この町に探偵事務所なんて、似つかわしくないよ。ダメだよ、ダメ」
「素行調査とか浮気調査とかさ。なんかイヤなんだよね、そういうのってさ」
「ここは風俗なんか無いし、大人の町だしね」
「アンタ、それ当たり前でしょ。ここでは認められてないんだから」
「あれ、前に商店街にパチンコパーラーがあったでしょ。あれは……」
「パチンコと風俗を一緒にしてたのアンタ? 別モンでしょうが」
「ああ、風俗といえば幡ヶ谷とか笹塚の方にはありますよね。一度行ってみたいなぁ、なんて思ってたんですよね」
代々木上原駅前商店街の町内会の面々が、一帳羅の光沢のある銀色のスーツに身を包んだ油井を一斉に振り返った。油井の丸い顔に浮かんでいた笑顔が、一瞬で凍りつく。
「いや、ウソですよ、ウソ。ちょっと場を和ませようかなぁー、なんて思ったりしまして……、スイマセン……」
アブソルート代々木上原探偵事務所所長の油井と、事務所が入る予定のビルを管理している不動産会社の社長、それに数名の商店街の重鎮たちが代々木上原商店街の通り沿いにある集会場に集まっていた。商店街に探偵事務所を開く事に対する理解を得ようと、不動産会社社長が話し合いの場を設けたのだ。
まだまだこの町では若輩者にあたり、気を利かして町内会のメンバーの一人に意見を聞いてみたのが、運のつきだった。知らぬ間に「騒ぎ」が広がり、緊急集会を開かざる得なくなってしまった。
油井の発言に苦笑いをしながら、不動産会社社長が言った。
「でもですね、大手町の企業からの社員の身元調査が主な仕事だという話ですし、ビルの案内板には『探偵事務所』という名前を出さないという約束もしてくれていますので……」
「そりゃあ、アンタんトコは、空室を埋めたいんだろうけどさぁ」
「いえ、ほとんど慈善事業みたいなものです」
不動産屋の社長が断言した。
「本来ならウチの4、5階の部屋は、セット貸しが前提なんですよ。それも小さい方の5階だけを借りるっていうんですから。で、5階にはトイレがないので、トイレはウチの一階の事務所を使うんです。こちらもかなりの譲歩をしているんです」
油井が社長の横でバツが悪そうにしながら、手で頭を掻いている。
「あんたは貸主だ。私らがどうこう言う筋合いはないんだが、まぁ、町の人たちとのトラブルは誰も望んでいないだろうし、付き合いってのも大事だからねぇ」
「犯罪を町に呼び込むような業種はお断りだよ」
「あらためて言いますが、看板は出さないんですから、大丈夫です」
社長は故意に強調して言った。それは、<どうせすぐダメになって、いなくなりますから>というニュアンスを言外に含めている。しかし、この発言は油井からは承諾済みで、町内会からの反発を懸念していた社長が、「最後の手段」として用意していたものだった。そんな事には全く気づいていないふりをしながら、油井は社長の隣でニコニコと微笑んでいる。
町内会のメンバーが、顔を見合わせた。リーダー格らしい老人が小さく頷くと、
「看板の件は絶対守って下さいよ。商店街でのビラ配りなんかもゼッタイお断りしますからね。それでもいいなら、後はそちらの社長さんに任せますよ」
「ありがとうございまーす!」
社長が口を開くよりも早く油井が元気よく頭を下げると、町内会のメンバーは苦笑いをしながら席を後にした。
晴れて「株式会社アブソルート探偵事務所」が「株式会社アブソルート代々木上原」の名のもとに開設され、約2年半の月日が流れた。しかし、本業である探偵業では油井が見込んだような収入は全く得られず、本当に「すぐいなくなる」状況に追い込まれてしまった。現在でも複数の副業を持つ身だが、そのひとつが1階の不動産屋でのアルバイトだった。
*
(Chapter2-2 へつづく)
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